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源顕雅[みなもとあらわみやび] 源 顕雅(みなもと の あきまさ)は平安時代後期の公卿。村上源氏、右大臣・源顕房の六男。楊梅大納言と号す。 == 経歴 == 応徳2年(1085年)に侍従に任じ、応徳4年(1087年)従五位上に叙される。寛治元年(1087年)正五位下・左近衛少将に叙任され、近江権守を兼ねた。寛治2年(1088年)五位蔵人に補され、従四位下に陞叙。右少将を経て、寛治3年(1089年)に従四位上、寛治5年(1091年)に正四位下に進み、備中権介を兼任した。 美作介、右近衛中将を歴任し、康和4年(1102年)蔵人頭、続いて参議に任ぜられ公卿に列す。同年中に院別当に補される。さらに従三位に叙され、康和5年(1103年)播磨権守、嘉承3年(1108年)に備中権守、天永4年(1113年)に播磨権守と地方官を兼帯。この間に正三位に進む。その後、大宮権大夫を経て、備中権守・備後権守と再度地方官に転じた。 保安3年(1122年)権中納言に任ぜられ、同年中納言に進む。大治5年(1130年)には石清水八幡宮に派遣され奉幣を行う。長承元年12月(1133年2月)には権大納言に昇る。長承2年(1133年)には約20年振りに叙位を受け、従二位に昇る。さらに長承4年(1135年)正二位に叙された。 保延2年(1136年)病により出家。9日後に薨去。享年63。なお、『公卿補任』に『尊卑分脈』では没日は14日としているが、『中右記』によると出家と同日の10月4日に薨去した、と記されてある。詩、管弦の才はなかったという。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「源顕雅」の詳細全文を読む
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