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溝口健二 : ウィキペディア日本語版
溝口健二[みぞぐち けんじ]

溝口 健二(みぞぐち けんじ、1898年5月16日 - 1956年8月24日)は、日本映画監督
女性映画の巨匠〔佐藤忠男著『日本の映画人 日本映画の創造者たち』p.581〕と呼ばれ、一貫して虐げられた女性の姿を冷徹なリアリズムで描いている。サイレント期は下町情緒を下敷きとした作品で声価を高め、戦中・戦後は芸道ものや文芸映画でも独自の境地を作り出した。完璧主義ゆえの妥協を許さない演出と、長回しの手法を用いた撮影が特徴的である。黒澤明小津安二郎成瀬巳喜男らと共に国際的に高い評価を受けた監督であり、ヴェネツィア国際映画祭では作品が3年連続で受賞している。また、ジャン=リュック・ゴダールを始めヌーベルバーグの若い映画作家を中心に、国内外の映画人に影響を与えた。代表作に『祇園の姉妹』『西鶴一代女』『雨月物語』など。
==来歴==

===生い立ち===
1898年(明治31年)5月16日東京市本郷区湯島新花町11番地(現在の東京都文京区)に、父・善太郎と母・まさの長男として生まれる〔〔ある映画監督の生涯 溝口健二の記録本編より〕。3姉弟の2番目で、3歳上の姉に寿々、7歳下の弟に善男がいる。父の善太郎は大工〔『溝口健二集成』p.318〕(屋根葺き職人〔新藤兼人著『ある映画監督 溝口健二と日本映画』p.87-88〕、請負業とする説もある〔佐藤忠男著『溝口健二の世界』では、「溝口家は代々、新橋加賀町で請負業をしていた」と書かれている〕)で、日露戦争時に軍隊用雨合羽の製造をしていたが、戦争終結により事業は失敗。差押えを受けて、一家は浅草玉姫町に引っ越すことになった〔。
1905年(明治38年)、私塾の田川学校に入学〔。一家の窮乏の口減らしのため、姉の寿々は養女に出される〔『溝口健二・全作品解説』p.389〕。寿々は養家から日本橋の芸者屋「三河屋」に奉公に出せられ、半玉となり、客の松平忠正子爵〔松平忠正(1886年 - 1963年)は、松平忠礼の弟土井忠直の次男で、忠礼の養子となった〕に落籍(後に正式に結婚し松平寿々となる)され一家の家計を助けた〔〔四方田犬彦著『映画監督溝口健二』p.256〕〔。1907年(明治40年)、同年開校の石浜小学校に入学。同級生には後年に仕事を共にする川口松太郎がいた。6年生の時、盛岡薬剤師をしている親戚に預けられ、そこで小学校を卒業した〔佐藤忠男著『溝口健二の世界』p.389〕〔。1912年(大正元年)、東京に戻ったが、リウマチに罹り1年間闘病していた〔〔。
1913年(大正2年)満15歳の時、浴衣の図案屋に弟子入り。同じ図案屋仲間の弟子に大久保忠素がいた〔〔貴田庄著『小津安二郎と映画術』〕。その後浜町の模様絵師に弟子入りし〔、1916年(大正5年)、赤坂溜池の葵橋洋画研究所(黒田清輝主宰・和田三造塾頭)に入って、洋画の基礎を学んだ〔。この時、研究所近くのローヤル館ジョヴァンニ・ヴィットーリオ・ローシーオペラを上演しており、その背景画を研究所が引き受けていたので、溝口もそれを手伝ううちに浅草オペラに夢中になった〔。また、この頃から落語講談などの江戸趣味に凝り始め、トルストイゾラモーパッサンなどの外国文学や、尾崎紅葉夏目漱石泉鏡花永井荷風らの本を読みあさっていた〔〔。
1917年(大正6年)、姉の計らいで名古屋の陶器会社の図案部に入ることになるが、働く気にはなれず、入社翌日には東京に戻った〔〔。1918年(大正7年)、神戸又新日報社広告部の図案係に就職するが、僅か1年で退職した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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