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滄浪閣 : ウィキペディア日本語版
滄浪閣[そうろうかく]
滄浪閣(そうろうかく)は、1890年明治23年)に、足柄下郡小田原町(現:神奈川県小田原市)に建てられた、政治家伊藤博文別邸1897年(明治30年)に中郡大磯町に同名の邸宅を建てて移転し、本籍も同町に移したことから、本邸となった。
== 小田原の滄浪閣 ==

伊藤博文は、初代内閣総理大臣、初代枢密院議長等の要職を重ねてきたが、大日本帝国憲法の草案が一段落した1889年(明治22年)に、父・十蔵の隠居地として小田原町緑1丁目8番地(現:小田原市栄町)に居宅を建設し、自身も枢密院議長辞任の意志を表明して小田原への永住を決めていたとみられている。同年10月に海岸の御幸の浜に面した小田原町十字643番地(現:小田原市本町)に別邸建設を開始した。
1890年(明治23年)10月にその別邸が完成し、「滄浪閣」と命名された。小田原の地に本格的に腰を据えようとした伊藤の意に反して、同年伊藤は貴族院議長に就任、1892年(明治25年)には第2次伊藤内閣を組閣することになり、その間には日清戦争もあるなど、静観の日々を送ることができない状況にあった。伊藤がこの滄浪閣にきている時には、政府の要人たちが次々と東京・小田原間を往来し、日清戦争に関する重要問題も滄浪閣で処理したことがあるほどであった。
1893年(明治26年)には、常宮周宮両内親王が避寒のために滄浪閣に滞在した。
その1893年(明治26年)に、伊藤は法典調査会を設置し、自らその総裁となって民法改正に着手する。起草委員に選ばれた穂積陳重、富井雅章、梅謙次郎の3名の法学博士は、1894年(明治27年)の5月から秋まで滄浪閣の一室に閉じこもり、民法典原案の立案執筆を行った。こうして1898年(明治31年)7月に「民法」全五編が施行され、この地は「民法発祥の地」とされることになった。
しかし、伊藤は民法施行を待たずに、1897年(明治30年)、滄浪閣の名と共に大磯町へ移っていった。建物は「養生館」として西村圭二の手でリゾート旅館として再開されることになったが、1902年(明治35年)に小田原町沿岸を襲った小田原大海嘯により大破し、その残部も1923年大正12年)の関東大震災で壊滅した。現在、その跡地には、伊藤の胸像と滄浪閣跡の碑が建っている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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