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滋野井公寿[しげのい きんひさ] 滋野井 公寿(しげのい きんひさ、1843年7月1日(天保14年6月4日)- 1906年(明治39年)9月21日〔『平成新修旧華族家系大成』上巻、705頁。〕)は、幕末の勤王派公家、明治期の内政官僚・華族。甲府県知事、伯爵。 ==経歴== 近衛権中将・滋野井実在の長男として生まれた。安政3年2月(1856年)に元服し侍従となる〔『明治維新人名辞典』476頁。〕。 文久3年6月(1863年)西四辻公業と後醍醐天皇陵で攘夷祈願を行い差控となる。慶応3年4月(1867年)英国公使一行の伏見通過について、父・実在、鷲尾隆聚ら20数名と朝廷に警護の対策を取るよう強く進言し差控となる〔〔『幕末維新大人名事典』上巻、623-624頁。〕。慶応4年1月(1868年)綾小路俊実と共に赤報隊の盟主に擁立されたが、活動中の金穀強要などを咎められ召喚令が出され帰京した〔。 王政復古後、明治元年4月(1868年)、佐渡裁判所総督に就任〔。佐渡鎮撫使を経て、同年10月、甲斐府知事となる。明治2年7月(1869年)、甲斐府が甲府県と改称され甲府県知事兼甲府城守となる。明治3年(1870年)9月、水害による凶作の独断による救恤処置が問題とされて謹慎となり、翌月知事を辞職〔〔。 その後、桂宮祗候などを務めた〔。父の死去により1878年4月30日、滋野井家当主を継承〔。1884年7月7日、伯爵を叙爵〔『官報』第307号、明治17年7月8日。〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「滋野井公寿」の詳細全文を読む
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