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滋野党[しげのとう]
滋野党(しげのとう)とは、平安時代初期頃の貞観12年(870年)から室町時代後期頃の天正10年(1582年)〔天正3年(1575年)設楽ヶ原の戦い(長篠の戦い)により望月家の親族や家臣大半を失い、武田家からの養子である武田信永(望月信永)が討ち死にし天正十年(1582年)甲斐 天目山の戦いで武田家が滅びると徳川家に寝返った依田信蕃からの斡旋により徳川家に匿われ駿河國に遁世し滋野党最後の継承者である望月信雅は武家望月家の家と共に幕を引き軍を解散した。〕までの712年間続いた東信濃の有力武士団であり、信濃国小県郡に本拠を置く海野家、祢津家、並びに同国佐久郡に本拠を置く望月家の滋野御三家を筆頭格に滋野姓を持つ傍流から成る武士団である。〔滋野党の武家は筆頭の御三家である海野家、祢津家、望月家を筆頭とし傘下の傍流に依田氏、湯本氏、会田氏、岩下氏、春原氏、櫻井氏(桜井氏)、金屋氏、横尾氏、塩川氏、福島氏、海善寺氏、極楽寺氏、万法寺氏、下屋氏、横谷氏、塔原氏、深井氏、大葦氏(大井氏)、別府氏、出浦氏、曲尾氏、川上氏、西山氏、太平寺氏、本覚寺氏、真教寺氏、鎌原氏、小田切氏、田沢氏、土肥氏、小田中氏、香坂氏(高坂氏)、金井氏、根井氏、増田氏、善念寺氏、証蓮寺氏、真成寺氏、〕 成立時期は平安時代初期頃の貞観12年(870年)の滋野善根が信濃国司に任ぜられ本貫地として信濃国小県郡海野庄に城柵を設け武士団を形成した頃であり、朝廷に貢馬の駒牽きを始めた頃に成る。 ==滋野党と平貞盛との繋がり== 承平8年(938年)、平将門に追われ東山道を京に脱出しようとした平貞盛が、2月29日に追撃してきた将門の軍勢100騎と信濃国分寺付近で戦った記録が残されており、このとき貞盛は、信濃国海野古城を拠点とする信濃御牧の牧監で旧知の滋野恒成(滋野善淵)の下に立ち寄り、滋野氏のみならず小県郡司他田真樹らの信濃国衙の関係者達も貞盛に加勢したが将門軍に破れ、平貞盛は付近の山中に逃れ危機を脱したといわれる(一説には平貞盛に加勢した信濃勢の総兵力は4000騎、対する平将門の兵力は100騎にも満たないともいわれる)。この戦い(千曲川合戦)により、信濃国分寺が焼失したと云う。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「滋野党」の詳細全文を読む
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