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滝川 具挙(たきがわ ともあき、生年不明 - 明治14年(1881年)5月11日)は、江戸時代後期の旗本。官位は従五位下、播磨守。初名は具知。通称は三郎四郎。子に滝川具綏(充太郎)、滝川具和。 == 経歴 == 禄高1200石の旗本の子として生まれる。滝川家は伊勢北畠氏一門木造氏の出身で滝川一益の娘婿となった滝川雄利を先祖とする〔滝川雄利の曾孫滝川具章の子孫。『徳川幕臣人名辞典』 p. 393.〕。滝川家の屋敷は神田駿河台下(現在の千代田区駿河台1丁目8番)にあり、隣家の息子は学問の同門で友人の小栗忠順であった。天保6年(1835年)3月に安積艮斎の私塾、見山楼に入門。嘉永元年(1848年)、大坂目付を務めた同名の父・三郎四郎を失った〔『寛政譜以降旗本家百科事典』 p. 1609. 以下、幕府職歴の出典は同書。〕。 安政6年(1859年)10月に小姓組番士・進物番兼務から小十人頭に任命される。万延元年(1860年)閏3月1日には目付に就任し、外国掛を命ぜられる。同年9月20日、外国貿易取扱(外国立会貿易筋之儀取扱)を命ぜられ、以後外交関連の関連の役職を歴任する。同年12月1日には外国奉行に就任し、従五位下・播磨守に補任され、翌2年(1861年)1月には、神奈川奉行に転出した。同年8月〔2月に文久と改元。〕に禁裏付となって京都に赴任し、文久2年(1862年)7月27日、京都町奉行に転任した。京都町奉行在任時には孝明天皇の行幸に随行している。 元治元年(1864年)9月、大目付に就任。天狗党の乱の時には天狗党に対して厳しい対処をし、長州征討では同役川勝広運と共に参謀役を担当した。慶応3年(1867年)10月22日、大政奉還後の情勢変化の為、古賀謹一郎らと共に上京を命ぜられるが、間もなく徳川慶喜の命により、江戸に戻される。しかし江戸における薩摩藩の横暴、江戸薩摩藩邸の焼討事件の情報を携えて、大坂城へと入城した。 慶応4年〔9月に明治と改元。〕(1868年)1月初頭、大目付滝川具挙は徳川慶喜の無罪を訴え薩摩藩を訴える討薩表を持って、旧幕府軍の先鋒を率い京都に向かう途中、鳥羽の関所を守る薩摩藩士椎原小弥太と問答の末、薩摩藩陣地から発砲される。この発砲の瞬間から鳥羽・伏見の戦いが始まったと言われる。具挙は敗走して淀城に逃げ込み、幕府軍の指揮をとるが再び敗れて、大坂を経て江戸に帰還した。 2月8日、敗戦の責任により同役の戸川安愛などと共に免職、寄合となる。同月10日には、永井尚志など同じく官位召上げ、江戸城への登城禁止処分を受けた。更に同月19日には、逼塞の処分を受け、4月9日には、改めて永蟄居に処された。その後は駿河台下の屋敷で蟄居していたが、江戸開城後、隣家である小栗忠順の屋敷を接収した東京府判事の土方久元が馬場の拡張をするため具挙に屋敷からの立退きを命じたので、退去して徳川亀之助に従い、静岡に隠居した〔『土方伯』 p. 414.〕。長男具綏(充太郎)は旧幕府陸軍に参加して江戸を退去し戊辰戦争で新政府軍と戦ったため、家督は次男の具和が継いだ。 明治14年(1881年)に没し、滝川家の菩提寺桂徳院(東京都練馬区)に葬られた〔『幕末維新大人名事典』 下巻, p. 42.〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「滝川具挙」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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