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滝川 具章(たきがわ ともあきら、正保元年(1644年) - 正徳2年11月18日(1712年12月16日))は、江戸時代の旗本。村上源氏北畠庶流滝川家(常陸片野藩主滝川雄利の子孫)分家初代当主。通称は三郎四郎、官位は従五位下、相模守、備中守、丹後守、山城守。 旗本滝川利貞の三男。母は片野藩主滝川正利の娘。妻は出羽庄内藩主酒井忠勝の娘、子に滝川利忠、滝川平利、滝川邦房、滝川具英、女子2人(長女は稲生正之室、次女は安藤信賁室)がいる。父利貞の跡を継いだ滝川利錦は実兄〔『寛政重脩諸家譜. 第3輯』 國民圖書, 1923, p. 427(コマ番号222)。〕。 ==生涯== 万治3年(1660年)、初めて徳川家綱に拝謁〔「厳有院伝御実紀」巻20. 万治3年12月25日条(『徳川実紀. 第參編』 経済雑誌社, 1904, p. 373.)。〕。寛文3年(1663年)、譜代大名・旗本の庶子120人が召しだされて書院番に入番したうちに選ばれて番士となり〔「厳有院伝御実紀」巻27. 寛文3年11月19日条(『徳川実紀. 第參編』p. 481-483.)。〕、寛文5年(1665年)に廩米300俵を与えられた〔。寛文10年(1670年)、中奥番を経て奥小姓に登用され〔「厳有院伝御実紀」巻41. 寛文10年11月16日条(『徳川実紀. 第參編』p. 713.)。〕、200俵加増の上、従五位下相模守に叙せられた〔。延宝5年(1677年)に500俵を加増されたが〔「厳有院伝御実紀」巻55. 延宝5年閏12月27日条(『徳川実紀. 第參編』p. 897.)。〕、延宝8年(1680年)に家綱が死去したのに伴って小姓を辞職し、寄合に列した〔。 元禄5年(1692年)、目付に任命されて復職〔「常憲院伝御実紀」巻25. 元禄5年4月14日条(『徳川実紀. 第四編』 経済雑誌社, 1904, p. 406.)。〕。元禄9年(1696年)、京都町奉行に昇進、近江国滋賀郡内に500石を加増された〔。滝川具章の京都町奉行任命に伴って同職は2名から3名に増員(1名は江戸在府)と定められ〔「常憲院伝御実紀」巻33. 元禄9年正月15日条(『徳川実紀. 第四編』p. 517.)。〕、伏見奉行が統合されて京都町奉行に伏見兼轄が命ぜられた(元禄11年(1698年)まで)〔「常憲院伝御実紀」巻33. 元禄9年2月2日条(『徳川実紀. 第四編』p. 518.)。〕。元禄10年(1697年)、廩米1000俵に替えて滋賀郡と蒲生郡のうちに高1000石の知行を与えられ、都合近江国内1500石を領する〔。元禄15年(1702年)、能力不足〔「その職に応ぜざる」(『寛政重修諸家譜』)、「奉職無状」(『徳川実紀』)。〕として京都町奉行を免職され、本来であれば寄合に戻るべきところ降格して小普請入りを命ぜられた〔。なお、このとき京都町奉行は定員2名に戻されている〔「常憲院伝御実紀」巻46. 元禄15年10月26日条(『徳川実紀. 第四編』p. 752.)。〕。 正徳2年(1712年)に死去、享年69。法名は義海。祖父正利の開基した下谷広徳寺の塔頭桂徳院(現在は東京都練馬区に移転)に葬られた〔。 長男利忠は父に先立って早世したため、家督は次男平利が継いで1200石を領し、三男邦房に300石を分与した〔。のちに邦房の婿養子利行が平利の家を継ぎ、具章の子孫は1200石の中級旗本として幕末まで続く。鳥羽・伏見の戦いで幕府軍の一手を率いた大目付・滝川具挙はこの家の幕末の当主である〔小川恭一『寛政譜以降旗本家百科事典』第3巻, 東洋書林, 1997, p. 1610.〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「滝川具章」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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