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滝川 具綏(たきがわ ともやす、嘉永3年2月22日(1850年4月4日) - 明治10年(1877年)5月31日)は、江戸時代後期の旗本で明治初期の陸軍軍人である。陸軍中尉従七位。通称は充太郎(みつたろう)。父は大目付・滝川具挙〔滝川陶哉の長男(全国版幕末維新人物辞典)〕。母は斎藤氏の出身。家紋は鶴の丸。弟に滝川具和(規矩次郎、海軍少将)、小林銀三(小林こと養子)、さと(名和又八郎妻)ら。妻は津多。子はなかった。 == 経歴 == 慶応2年(1866年)、横浜でのフランス兵式伝習に参加。 慶応4年〔9月に明治と改元〕(1868年)1月、鳥羽・伏見の戦いに参加。江戸で歩兵頭並に昇進。 江戸開城の際、伝習第一大隊の残兵を率いて江戸を去り、同年4月14日大鳥圭介と合流。直後に秋月登之助の伝習第一大隊から本多幸七郎の伝習第二大隊に転属し、伝習第二大隊頭取改役となった。 その後、大川正次郎と共に実戦経験が無かった大鳥圭介を支え、宇都宮城の戦い、今市の戦い、会津戦争と転戦し、仙台で伝習士官隊隊長に昇進した。なお、伝習歩兵隊隊長には、大川正次郎が就任した。 その後、榎本武揚の艦隊と合流、箱館戦争に参加し、明治2年(1869年)4月の二股口の戦いでは新政府軍の駒井政五郎の軍を敗走させたが、この戦いで多くの部下を死なせた滝川充太郎に対し大川正次郎が詰め寄った際は、陸軍奉行並であった土方歳三が「大川の理、滝川の勇」と評して仲裁したという。 同年5月、五稜郭の開城により降伏した。家督は弟の規矩次郎が継いだ。 その後、弘前、函館を経て赦免され、静岡に帰り、明治4年(1871年)、日本陸軍に大川正次郎と共に入隊。明治10年(1877年)、西南戦争において別働第二旅団に所属し、人吉攻防戦に参加、熊本県球磨郡瀬戸山で戦死した。享年28。 大鳥は墓碑文の中で「君少ニツ捷敏豁達小事ヲ屠セズ」 と評した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「滝川具綏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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