|
瀧川 政次郎(たきかわ まさじろう、1897年5月26日 - 1992年1月29日)は、日本の法学者。専門は法制史。大阪府大阪市西区出身。法律学の立場から法制史の体系化に尽力する。学位は法学博士。國學院大學名誉教授。 == 人物 == 大阪市西区に米穀商を営む瀧川与之吉・シナの二男として生れる。母方の祖父が有職故実の研究家だった影響で制度史・法制史に関心を持つ。 地元の大阪市立東江尋常小学校附属幼稚園、同小学校を卒業後、いったん奉公に出て、夜は私立関西商工学校の夜学に通った。しかし向学の念が強く、桃山中学(現・桃山学院高等学校)に編入、1914年に卒業した。神戸高等商業学校進学を希望していたが、実業家芝川栄助の勧めで第一高等学校への進学を決意する。1919年第一高等学校丙類(独法)卒、1922年に東京帝国大学法学部(独法)卒業。 大学卒業後、南満州鉄道に4ヶ月勤務の後、希望する調査部に配属されない不満から退社、中央大学・法政大学・日本大学で講師として法制史を講義。1925年九州帝国大学法文学部助教授(美濃部達吉の推薦によるという。実際には2年間、内地留学で東京在住)、2年後には教授となるが、1927年、九大事件で休職となり、1929年免官。 だが、法制史に関する社会的関心が高まる中で慶應義塾大学・東京商科大学などからの招聘が相次ぎ法制史講座設置に尽力、また社会経済史学会の設立にも関わった。1930年には中央大学法学部教授となり、1934年には「律令の研究」により東京帝国大学より法学博士の学位を授与されるが、この年に発表した大化の改新を巡る論文(「大化改新管見」)で軍部や右翼の攻撃を受けて再び大学を追われる。日本国内で教壇に立てなくなった瀧川は、1934年より3年間満州国司法部法学校において司法官の養成に従事し、次いで北京にて新民学院の設立に関わり、同学院教授となって2年間中華民国臨時政府の幹部職員養成に尽力、さらに1940年からは建国大学教授に就任し、そこで日本の律令法に深く関わりのある中国法制史にも関心を広げた。 新京で終戦を迎え、ソ連軍の捕虜となる。戦後、日本に帰国した。かつて軍部の弾圧を受けて大学を追われた経緯があったにも関わらず、極東国際軍事裁判の弁護人(嶋田繁太郎担当)となって裁判の問題点を追及した。 弁護士生活(加藤隆久と共同開業)の後、1947年に鵜沢総明の依頼で大東文化学院の大学昇格に尽力したことが縁で明治大学講師となり、その明治大学で野間繁に要請され1949年より國學院大學政経学部(のち法学部)教授に就任、1968年の定年まで務める(1968年客員教授、1972年名誉教授)。1952年7月、瀧川の結婚にあたり、それまで関係を続けてきた一未亡人が「女心を踏みにじられた」と自殺未遂の末、慰謝料請求調停を求める。瀧川は「独身の私が月5000円で契約した"通勤の娼婦"と手を切ったまで」と反論した〔『三木鶏郎回想録2 冗談音楽スケルツォ』p.416〕。 1953年からは近畿大学兼任教授。教壇生活の一方で、地方史研究所を設立して国家や学会主流の史観に捉われない地方史の必要性を訴えた。また、後南朝や遊女の歴史など、戦前であればタブーであった研究にも積極的に取り組んだ。その研究意欲は晩年まで衰えず90歳を過ぎても論文を発表し続けた。しかし、基本的な知識(五家荘を人吉市にあると記述したり、地元でもあまり知られていない工芸品を名産品と紹介するなど)が歴史家と比べて欠如しているのでは?と批判された事もあった。川西政明によれば高橋和巳の長編小説『悲の器』の主人公・正木典膳のモデルとされる〔『評伝高橋和巳』〕。 94歳で死去、墓は東京の松陰神社内にある。長男は東京高裁統括部判事の滝川叡一(1923-2009年10月27日)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「瀧川政次郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|