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滝本重行 : ウィキペディア日本語版
滝本重行[たきもと しげゆき]

滝本 重行(たきもと しげゆき)は、戦国時代の武将。陸奥の大名南部氏の家臣。大光寺城代。
== 生涯 ==
南部家臣の一員として、北信愛が退去したのち、大光寺城へ入る。城下家数90軒、石高1万5,6千石、平賀郡田舎郡、津軽三大名のひとつに数えられた。猛将として知られ、永禄8年(1565年)6月5日、乳井城主で乳井福王寺の別当である乳井玄蕃を配下で大光寺城一の強者後藤五郎左衛門に襲撃させ、荒田(現在の平川市荒田地区)引座川畔で殺害し、高畑城を接収するなどし、勢力を広げた。なお、乳井玄蕃とは猿賀深沙大権現(猿賀神社)も兼ねており、強大な勢力から、常日頃争いが絶えなかった。その為、猿賀の百姓同士の境界争いに玄蕃が出向き、裁決を終え、その帰途を狙い主従25人を惨殺した。このことを恨み、玄蕃の息子乳井建清大浦為信に仕え、大光寺城攻めなどに活躍した。
天正2年(1574年)8月13日、大浦為信は4000(3000とも)の大軍で大光寺城へ攻め寄せた。しかし、舘田林からの通報により、事態を悟った重行は700の精鋭を率いて、本陣へ突撃した。不意を突かれた為信は敗走し、一回目の危機は逃れた。しかし、天正4年(1576年)正月元旦、再度の攻撃で正月という不意を突かれ、奮戦むなしく落城し、小湊口から南部へ逃れた。その際、妻が「今はとて立別るるもなれきにし真木の柱に我等わするな」と城内の柱に刻んで、去ったという。その後、天正7年(1579年)7月に北畠顕則らと共に1000人の兵で本拠の奪還を狙うも、六羽川合戦で敗退し、比内へ敗走し、後南部に逃れた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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