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漆川の戦い[うるしがわのたたかい]
漆川の戦い(うるしがわのたたかい)は、応安元年/正平23年(1368年)出羽国で行なわれた北朝側鎌倉公方足利氏満・羽州探題斯波兼頼・奥州探題大崎直持と南朝側大江茂信の戦いである。 ==概要==
=== 羽州探題斯波兼頼 === 奥羽地方での南北朝の対立は当初陸奥国多賀城を中心として行われた。多賀城に拠る鎮守府将軍北畠顕家を延元2年/建武4年(1337年)奥州総大将石塔義房が伊達郡霊山に追いやり、顕家が摂津国で戦没後は、後任の鎮守府将軍北畠顕信(顕家の弟)が康永元年/興国3年(1342年)多賀城の奪還を狙い石塔義房と陸奥国栗原郡三迫(宮城県栗原市)で戦い顕信軍は敗北、南朝の勢力は後退することになる。その後奥州管領吉良貞家・畠山国氏が赴任するが観応の擾乱で北朝側も混乱をきたし、観応2年/正平6年(1351年)北畠顕信が多賀城を奪回、しかし翌年には勢力を回復した北朝側吉良氏が取り戻し状況はめまぐるしく変化した。文和2年/正平8年(1353年)顕信は吉良に敗れ陸奥を脱出、出羽国が南北朝の争いの舞台となる。 文和3年/正平9年(1354年)吉良貞家の後任として斯波家兼が奥州管領として赴任すると畠山平石丸・石塔義基(石塔義憲)が奥州管領を自称し、吉良貞家の子満家も含めて四管領乱立の状況となる。この争いは斯波氏優勢で進み延文元年/正平11年(1356年)斯波家兼の次男斯波兼頼が羽州探題として出羽へ入部する。兼頼は事前工作として、成生荘(山形県天童市成生)に勢力を扶植しつつあった里見義景に弟義宗を養子として送り込み、また山家氏も婚姻政策によって傘下に組み入れた。兼頼は山形城を築き山寺をはじめとする寺社勢力の懐柔につとめ、最上郡東部(現・山形市、東村山郡など)に勢力の根を下ろしていく。
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