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漆雕開(しっちょう かい、紀元前540年 - ?)は、孔子の弟子のひとり。漆雕(漆彫とも書く)が姓。漆雕啓とも書かれる〔『漢書』芸文志「『漆雕子』十三篇。孔子弟子漆雕啓後。」〕。本来の名は「啓」であって、のちに漢の景帝の名の啓を避諱して「開」に改めたものと考えられる。字は子開(『史記』)または子若(『孔子家語』)で、『孔子家語』によると孔子より11歳若い。 孔子の主要な弟子である七十子のうち、漆雕氏は3人が見える(漆雕開、漆雕哆、漆雕徒父(または漆雕従))。また、『孔子家語』好生篇、および劉向『説苑』権謀篇には漆雕憑(『説苑』では漆雕馬人)という人が見える。いずれも漆雕開との関係はよくわからない。 == 逸話 == 『論語』公冶長篇で、孔子が仕官をすすめたのに対し、まだ自信がないと答えた。孔子はこの答えを喜んだという。 『孔子家語』によると、漆雕開は『尚書』を学んだ。 『漢書』芸文志によると、漆雕開の弟子が記した『漆雕子』という書物があったという〔。『韓非子』顕学篇によると、儒家八派のひとつに漆雕氏の儒があったといい、『漆雕子』はこの学派によるものかもしれない。 おなじく『韓非子』によると、漆雕氏は膚や目を突き刺されてもびくともしないのをよしとしたという〔『韓非子』顕学「漆雕之議、不色撓、不目逃。行曲則違於臧獲、行直則怒於諸侯。世主以為廉而礼之。」〕。 王充『論衡』では、漆雕開を宓不斉・公孫尼子とともに、性善・性悪の説を立てた人のひとりとしてあげている〔王充『論衡』本性「密子賎・漆雕開・公孫尼子之徒、亦論情性、与世子相出入、皆言性有善・有悪。」〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「漆雕開」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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