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漢民族(かんみんぞく)は、中華人民共和国(中国大陸)、中華民国(台湾)、シンガポールで大多数を占める民族。人類の20%を占める世界最大の民族集団である。 中華人民共和国の民族識別工作では漢族と呼ばれ、中華人民共和国の人口の94%以上を占める。漢人ともいい、華僑として中国を離れ、移住先に定着した人は華人、唐人と自称することが多い。 == 漢民族の形成 == 漢民族の由来は中国の漢の時代に遡る。 シンガポール日本文化協会会長 顔尚強によれば、「漢民族はその昔、漢民族とは称されておらず、華夏族と称されていた。漢民族という名称は漢王朝(BC 206~AD 220)の時代から今日まで使われてきてはいるが、今でも本土の中国人は中国のことを華夏、中華文明を華夏文明と呼ぶことがある。学者によると、周王朝(BC 1066~BC 256)の創立者である周武王が商王朝(殷王朝ともいわれる。BC 16世紀~BC 1066)の末代の商紂王を討ち取った後中原に定住し、その一族を中国の伝説上の先聖王である神農・黄帝・堯・舜をちなんで「華族」と称した。また夏王朝(BC 21世紀~BC 16世紀)の創立者の大禹の末裔が「夏族」と称されていたことから、中原に居住していた族群を「華夏族」と称するようになったと言われている」〔「華人社会について」シンガポール日本文化協会 会長 顔 尚強 〕という。 紀元前221年、秦の始皇帝が中国を統一し、ばらばらとなっていた華夏族が統一となり、その後の漢の時代に文明が高度に発達した。漢の時代は前漢及び後漢合わせて408年間にも及び、版図が空前に拡大し、文化も高度に発達した。この時期の華夏族は周辺民族から「漢人」と呼ばれ始めた。これは漢族の由来である。漢民族は漢の時代に形成し、その後幾度の民族融合及び異民族の漢化を経て現在の漢民族を形成した。 林惠祥は著書『中国民族史』で漢民族は華夏族を中心として東夷系、荊呉系、百越系及び東胡系、匈奴系などの民族を吸収し形成した民族であると論じている。黄河の上・中流を中心に居住していた華夏系は黄河の下流の東夷系、長江の中流の荊呉系及び珠江を中心とした百越系と融合及び統合のプロセスを通して漢民族に生まれ変わったわけである〔『中国民族史』 1930年商務印書館出版〕。 漢族に典型的な遺伝的血統があるわけではなく〔中央日報(日本語WEB版)『中国に純粋血統の‘漢族’は存在しない 』2007年2月15日〕、その実体は漢字の黄河文明を生み出した中原と周辺の多民族との間で繰り返された混血。ゆえに、異民族でも漢族の文化伝統を受け入れれば、漢族とみなされる。実際、漢民族は現代に至るまでの長い歴史の間に五胡、契丹、満州、モンゴルなど、多くの民族との混淆の歴史を経て成り立っている。 漢民族という言葉の下敷きとなった漢朝(前漢・後漢)では最盛期には人口が6000万人を数えたが、黄巾の乱や三国鼎立の時代、さらには八王の乱・永嘉の乱など後漢末からの社会的混乱や天候不順のため、中原の戸籍に登録されている者は500万人を切った。この後は、次段落にあるように北族の時代を迎え、岡田英弘はこの時点でオリジナルな漢民族は滅亡したと主張している。 4世紀頃から北方の鮮卑などの北方遊牧民族に華北平原を支配され(→五胡十六国時代)、この結果、中原に居住していた民族の一部は南方に移動(→客家)した。最終的には北方民族は漢語をはじめとした漢風の諸習俗を受け入れた。隋唐時代の初期に多大な犠牲を払って完成した大運河は、物流のみならず人的・文化的にも中国大陸の南と北を強く結びつけ、中華地域の一体化に大きく貢献した。また、のちの遼や金、元や或いは後金やその後身の清などといった征服王朝期は、中華文化は北方の草原文化を取り込む機縁ともなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「漢民族」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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