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漱石の夏やすみ[そうせきのなつやすみ] 『漱石の夏やすみ-房総紀行『木屑録』』は中国文学者、高島俊男の評論である。夏目漱石が23歳の時、漢文で書いた紀行文『木屑録』を日本語に訳し、支那語(現代中国語などと区別するために支那語と書かれる)の文章という観点や漢詩の規則という観点で批評を行った評論である。漱石の教養の土台や日本における「漢文」の成立過程と訓読の問題なども論じられる。2000年に朔北社から出版された。第52回読売文学賞随筆・紀行賞を受した。 ==概要== 第一高等中学校で同級となった正岡子規が、漢文、詩、短歌、発句、謡曲、和漢混淆文、雅文の7種類の文体で書いた文集「七草集」を作って回覧したのを受けて、夏目漱石は『木屑録』を子規に見せるために書き、子規の批評が記されて残されている。友人4人との漱石の房総旅行が題材となっている。5千字の漢文で、16章にわかれて14首の漢詩が含まれている。明治22年9月末、子規に渡され、10月子規が批評をかいた。子規の批評は「英書を読むものは漢籍ができず、漢籍ができるものは英書は読めん。我兄の如きは千万年にひとりである」と書いた。 もともとが「戯文」であり、おおげさな修辞などを楽しんで書かれたものである。中国で古代に確立されて、歴史のなかで洗練された中国語の書き言葉「文言」のよしあしという観点での批評が行われ、中古漢語の音韻により韻を踏む詩の規則などで(その規則は中国語で読まれた時のトーンの美しさを生むものである)漱石の詩が批評される。総括して漱石の文章は江戸時代式の文字言語としての支那文を読み、あやつる訓練を受けた文章であり、子規の文章は日本語で文章を書いて、かなを取り去ったような発想が日本語であって文章になっていないと評される。 日本の特異性は、明治期になるまで、知識人が普遍的にもちいる書き言葉がなく、中国の「文言」を借用したことであった。「漢文」の起源として、日本にもたらされた漢籍が、多くの日本人が発音の知識を失うことによって「訓読」という形で翻訳と記憶が行われたことが、批判的に紹介される。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「漱石の夏やすみ」の詳細全文を読む
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