|
潔子内親王(けつし(きよこ)ないしんのう、治承3年4月18日(1179年5月26日) - 薨年不詳)は、平安時代後期の皇族。高倉天皇皇女。母は按察典侍(藤原頼定の娘)。後鳥羽天皇朝の伊勢斎宮。大谷斎宮と号した。 文治元年(1185年)11月15日、潔子と命名され、7歳で斎宮に卜定される。同2年(1186年)5月23日、左近衛府へ初斎院入り、同年9月28日野宮へ遷る。同3年(1187年)9月18日、伊勢へ群行(長奉送使は権中納言源通親)。建久9年(1198年)1月11日、後鳥羽天皇譲位により在任13年で退下、同年8月23日帰京。 斎宮退下後は神祇伯仲資王・業資王親子の後見を受けていたと見られ、『仲資王記』『業資王記』から祭見物や寺社参詣などをしていたことが知られる。また藤原定家の甥言家の妻が仲資王の娘であり、潔子内親王に仕えていたことから『明月記』にもたびたび動向が記されている。安貞元年(1227年)7月に病にあったと知られるのが最後で、以後の消息は不明。 == 参考文献 == *山中智恵子『続斎宮志』砂子屋書房、1992年。 ISBN 4-7904-9221-4 *角田文衛監修『平安時代史事典』角川書店、1994年。 *服藤早苗 編著『歴史のなかの皇女たち』小学館、2002年。 ISBN 4-09-626128-9 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「潔子内親王」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|