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潘 昌煦(はん しょうく)は中華民国、中華人民共和国の裁判官・法学者・政治家。北京政府時代に、司法分野の要職をつとめた人物である。字は由笙。 == 事跡 == 1898年(光緒24年)、戊戌科進士となる。日本に留学後、翰林院編修、国史館協修、編査処協修、武英殿協修を歴任した。 中華民国成立後には、法制局惨事となった。1915年(民国4年)11月、司法官懲戒委員会委員となり、翌月、大理院推事兼庭長に異動している。1922年(民国11年)5月、代理大理院長を兼ねた。その後、大総統府顧問に異動し、さらに私立燕京大学法律系教授となる。 1929年(民国18年)、国立清華大学政治系講師となった。1933年(民国22年)、帰郷している。日中戦争(抗日戦争)勃発後は、張一麐とともに、難民救済会を組織している。 中華人民共和国成立後も大陸に留まっている。蘇州市人民代表会議代表を経て、1953年、第1期全国人民代表大会代表に当選した。 1958年1月13日、蘇州市にて病没。享年82。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「潘昌煦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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