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潘楽[はん がく] 潘 楽(はん がく、510年頃 - 555年)は、中国の東魏・北斉の軍人。字は相貴。本貫は広寧郡石門県。 ==経歴== 北魏の広宗男の潘永の子として生まれた。出生の時に一羽の雀がその母の左肩に止まり、占者が富貴の徴であると言ったので相貴と名づけられ、後にこれを字とした。六鎮の乱が起こると、葛栄に従い、京兆王に封ぜられた。葛栄が敗死すると、爾朱栄に従い、別将として元顥を討ち、功績により敷城県男に封ぜられた。 高歓が晋州に入ると、潘楽は召されて鎮城都将となった。従軍して爾朱兆を広阿で破り、広宗県伯に爵位を進めた。軍功を重ねて東雍州刺史となった。高歓は東雍州を廃止しようと考えたが、潘楽は東雍州が胡・蜀に連なる重要な土地であるので放棄してはいけないと主張し、聞き入れられて元のままとなった。後に西魏の軍を河陰で破ったとき、潘楽と劉豊だけがさらなる追撃を望んだが、諸将の衆議がまとまらず、取りやめとなった。金門郡公に改封された。549年、高洋が高澄の後を嗣ぐと、潘楽は河陽に駐屯し、西魏の将の楊らを破った。ときに懐州刺史の平鑑らが築いた城が敵中に深入りしすぎており、孤立する危険があるので、高洋はこれを放棄しようと考えた。しかし潘楽は、軹関を要害として防御を固め、さらに城を修理して、兵士を増員させて対処した。河陽に帰還すると、司空に上った。550年、北斉が建国されると、河東郡王に進封され、司徒に転じた。宇文泰が崤州・陝州に侵攻し、西魏の行台の侯莫陳崇が斉子嶺から軹関に進軍し、西魏の儀同の楊が鼓鐘道から建州に出て孤公戍を落とした。潘楽は西魏の侵攻に対処するため長子にいたり、儀同の韓永興を建州の西の侯莫陳崇に当たらせると、侯莫陳崇は遁走した。潘楽はまた南道大都督となり、侯景を攻撃し、梁の涇州を奪い、また安州で勝利した。瀛州刺史に任ぜられ、淮水・漢水の流域を攻略した。555年、懸瓠で死去した。仮黄鉞・太師・大司馬・尚書令の位を追贈された。 子の潘子晃が後を嗣ぎ、北斉の幽州刺史に上ったが、冀州で北周に降伏し、隋の大業初年に死去した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「潘楽」の詳細全文を読む
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