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潘濬 : ウィキペディア日本語版
潘濬[はん しゅん]

潘 濬(はん しゅん、? - 239年)は、中国後漢末期から三国時代の武将・政治家。荊州武陵郡漢寿県の人。承明。妻は蒋琬の妹。従兄は蒋琬〔『三国志』潘濬伝注『江表伝』 〕。子は潘翥・潘祕・女子一人(孫慮の妻)。
劉表劉備に仕え、両者から有能だと評価された。その後はに仕え、孫権からは特に信任され重く用いられた。『三国志』呉志に伝がある。
== 正史の事績 ==
20歳前後の時、宋忠から学問を学んだ。『呉書』によると、聡明な資質を持ち、人との応対は機敏で、その言葉は理論立っていたとされ、王粲に高く評価されたのを機に、荊州の人士の間で名声を得た。30歳以前の時、劉表に召し出され江夏郡の従事となった。当時、江夏郡は汚職官吏の横行によって統治が乱れていたが、潘濬は彼等を法に照らして処罰したので、民衆は彼の厳格な法の適用を恐れ、郡を挙げて従うようになった。その後、湘郷県令として優れた治績を上げたため、人々からの評判が極めて高くなった。
劉備が荊州を治めるようになると、その配下となり荊州の従事を務めた。劉備が益州に入ると荊州に留められ、州の事務を一任される事になった。劉備には信任されていたが、関羽には糜芳士仁と同様に疎まれていたという〔『三国志』楊戯伝の「季漢輔臣賛」。 〕。
219年呂蒙の計略により、荊州は糜芳・士仁が寝返って関羽も殺害され、孫権に占領された〔『三国志』呉主伝 〕 〔『三国志』呂蒙伝 〕。『江表伝』によると、荊州にいた劉備配下の部将や役人のほとんどは孫権に帰順したが、潘濬だけが自宅に退き出頭しなかった。孫権は部下に命じて潘濬の説得を試みたが、潘濬は寝台の上で泣くばかりで出頭を拒否した。そのため孫権は潘濬を寝台に括り付けて自分の下に連行させ、自ら親しくその説得に当たり、心服させた。潘濬は輔軍中郎将に任じられ、荊州の軍事を委任された(『江表伝』によると治中も兼任)。まもなく奮威将軍に昇進し、常遷亭侯に封じられた。
『江表伝』・『襄陽記』によると、220年に武陵の部従事であった樊抽が異民族(武陵蛮)をまとめあげ、221年には以前の潘濬の同僚である習珍もこれに呼応し、昭陵太守を自称した〔劉備の征呉東侵に呼応するため。〕。孫権は、潘濬が樊抽達の旧知であり、荊州の事情にも通じていたため、仮節を授け諸軍を統率させ、歩騭と共に鎮圧させた。潘濬は信賞必罰をもって軍規を徹底した上で討伐にあたり、異民族を鎮撫する事に成功した。ついで習珍にも、一時は軍を引き下げて降伏を勧めたが、これは拒絶されている。
後に、周魴曹休に送った偽降の手紙によると、潘濬は異民族の降伏者を多数編入し、強大な軍勢を率いていたという〔『三国志』周魴伝 〕。
226年、古参の将軍の一族である芮玄(孫登の妻の父)が亡くなった後、その兵士を与えられ夏口に駐屯したという〔『三国志』潘濬伝注『呉書』 〕。
229年、孫権が即位すると、潘濬は少府に任じられ、劉陽侯に封じられた。やがて太常に昇進した。陸遜と共に武昌の守備にあたったという。
これより以前、歩騭は226年に漚口へ駐屯するようになったが、驃騎将軍となった229年以降に〔『三国志』歩騭伝 〕軍勢の強化を図るため、私兵を雇う事を孫権に願い出た。しかし、潘濬が歩騭の軍閥化を危惧する意見を出したため、孫権はこの意見に従い許可しなかった〔。また、名声が高く横暴な振る舞いが目立っていた、中郎将である豫章の徐宗を斬った〔。これらは、潘濬が法を重んじて人々の評判を意に介さなかった例として挙げられている。
230年、魏の隠蕃という人物が投降し、朱拠郝普など多くの人物が彼を賞賛したが〔『三国志』胡綜伝 〕、潘濬は投降者の彼と付き合おうとする子を叱りつけた。後に、隠蕃が密偵であったことが判明すると、潘濬の先見の明が賞賛された〔。
時期や経緯は不明だが、娘を孫慮に嫁がせている。
231年、五谿の異民族(五谿蛮)が反乱を起こすと、五万の兵を率いて出陣した〔。このとき、長沙にいた呂岱の協力も受け〔『三国志』呂岱伝 〕、呂拠朱績鍾離牧といった将軍を率いていたが、鍾離牧を一時置き去りにしなければならないほど苦戦したこともあったという〔『三国志』呂範伝付呂拠伝 〕 〔『三国志』朱然伝付朱績伝〕 〔『三国志』鍾離牧伝注『会稽典録』 〕。234年冬11月になって、ようやく反乱を鎮圧した〔。このとき、数万の敵を斬るか捕虜にしたという。
異民族討伐を終えると、再び武昌の守備についた。
同年、蜀漢諸葛亮が没し、その跡を受けて蒋琬が大将軍になると、彼との縁戚関係から、潘濬の蜀との内通を疑う意見が出された。これを真に受けた武陵太守の衛旌が孫権に報告したところ、孫権はそれを聞き入れず、封をしたまま潘濬に手紙を渡し、衛旌を中央に召喚し免職にした〔。
この頃、呂壱が家臣の昇進や処罰を妄りに行ない、権勢をほしいままにしていた。建安太守の鄭冑が呂壱の讒言により獄に下されたときも、陳表と共にこれを諌め、無罪放免にさせたという〔『三国志』呉主伝注『文士伝』 〕。さらに、顧雍や朱拠までもが軟禁されるという宮中の混乱に潘濬は激怒し、同じく事態を憂慮していた陸遜と協力し〔『三国志』陸遜伝 〕、呂壱の排除を計画した。呂壱は顧雍を排除した後、潘濬がその後任になることを知ると、慌てて顧雍を無罪放免とした。
潘濬は上京して孫権に直訴しようとしたが、既に孫登の諫言すらも取り上げられなかったことを知ったため、自ら殺人の罪を被ることで国のために憂いを除こうと思い、百官を全て集めその場で呂壱を殺そうと計画した。しかし、呂壱が事前に察知して参内を避けたため果たせなかった。その後も潘濬は孫権に目通りする度に呂壱の悪事を糾弾した。歩騭もまた、潘濬や陸遜の意見を支持したという〔。
このため孫権の呂壱への寵愛もやがて失せ、238年に呂壱は処刑された。孫権は、自らの不明を百官に謝罪すると共に、呂壱の悪事を諌めなかった重臣も同時に糾弾した。潘濬は陸遜と共に、涙を流しながら苦しげな態度をとったため、孫権を不安にさせたという〔。
239年死去。潘翥が跡を継いだが、若くして亡くなった(『呉書』)。このため弟の潘祕が兄の後を継ぎ、孫権の姪(姉の娘)の陳氏を娶った。荊州での任務については呂岱が引き継いだ〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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