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潘育桂 : ウィキペディア日本語版
潘毓桂[はん いくけい]

潘 毓桂(はん いくけい)は中華民国の政治家。はじめは直隷派陳光遠に属し、後に宋哲元の側近をつとめた。さらに中華民国臨時政府、南京国民政府(汪兆銘政権)の要人となっている。燕生。なお、山口淑子(李香蘭)を義理の娘としている。
== 事跡 ==
清末に挙人となる。日本に留学し、早稲田大学を卒業している。帰国後は民政部五品警官首席秘書、内外城警庁検事、国務院法制局参事、江蘇省督軍署政学参議を歴任する。1917年(民国6年)、直隷派江西督軍陳光遠の配下となる。督軍公署秘書長、同軍法処処長、景徳鎮統税局局長を歴任した。
1923年民国12年)からは、蒙蔵院副総裁、国務院参議、津浦鉄路局副局長などに就いている。宋哲元が平津衛戌司令に任命されると、潘毓桂はその高等顧問となる。1936年(民国25年)に国民政府行政院が冀察政務委員会を設立すると、政務処処長兼交通委員会委員となった。
1937年(民国26年)7月、潘毓桂は北平治安維持会常務委員、北平警察局局長に任命された。中華民国臨時政府成立後の1938年(民国27年)1月、天津特別市市長に任ぜられた。しかし潘は、天津市の地元人士からの声望に乏しく、日本軍の天津特務機関からも意中の人物とされていなかった〔以上、天津市河北区人民政府ホームページ「潘毓桂出任天津偽市長的前前後後」による。なお『最新支那要人伝』179頁は、北平での「抗日反満分子」を鎮圧する「法官出身の凄腕」、「辣腕と迫力」を買われて、潘毓桂は天津市長に任命された、としている。〕。そのため、次第に日本側の信任を得て台頭してきた天津海関監督・温世珍に潘は市長の地位を脅かされるようになり、これと政争を繰り広げている。
翌年、天津特務機関長・柴山兼四郎(大佐)の説得を受け、潘毓桂は天津市長を辞任し、温世珍に譲った。その後、潘は日本を一時訪問している。1940年(民国29年)3月、汪兆銘(汪精衛)が南京国民政府を樹立すると、その翌月に華北政務委員会委員に任命された〔以上、天津市河北区人民政府ホームページによる。なお、潘毓桂の天津市長就任時期につき、徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』は汪兆銘政権成立後に天津市長を兼ねた、としており、『民国職官年表』は、1940年3月辞任としている。『最新支那要人伝』は、1939年としている。〕。
日本敗北後、潘毓桂は漢奸として逮捕、収監された。中華人民共和国成立後の1961年11月12日、上海の獄中で病没した。享年78。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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