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潮ノ濱義夫 : ウィキペディア日本語版
潮ヶ濱義夫[しおがはま ぎふ]
潮ヶ濱 義夫(しおがはま ぎふ〔読みは「よしお」とも。大相撲力士名鑑平成13年版76P、水野尚文、京須利敏、共同通信社、2000年、ISBN 978-4764104709〕
1897年12月8日 - 1937年11月6日)は、青森県西津軽郡木造町(現・つがる市)出身の元大相撲力士高砂部屋所属。本名は長谷川 義夫。現役時代の体格は身長170cm、体重90kg。最高位は西前頭11枚目(1930年1月場所・3月場所)。得意手は突っ張り、左四つ、寄り、足癖。
== 来歴 ==
旧制函館中学校(現・北海道函館中部高等学校)を卒業し、小学校の代用教員をしていたという、角界では異色の経歴を持つ。遠縁に幕内力士立汐祐治郎・立汐唯五郎の兄弟がいた。3代高砂(元大関2代朝潮)に入門して1917年1月場所で初土俵。6年後の1923年5月場所に十両昇進、1928年3月場所で入幕した。
実は入幕直前の1928年1月場所、潮ヶ濱(当時は「汐ヶ濱」)は東幕下7枚目の地位にいて、成績は1勝2敗3休の成績だった。現在なら当然入幕はおろか番付を下げるはずなのだが、当時は1927年の東(東京相撲)西(大坂相撲)合併に伴って変則的な番付編成をしていた。つまり1928年1月場所は前年5月場所(両国国技館開催)の成績を、3月場所は前年10月場所(京都八坂新道にて開催)の成績を基準として作成していたのだ。汐ヶ濱の場合は、
*1927年1月場所(開催地:両国) 東十両4枚目で2勝4敗
*1927年3月場所(開催地:大阪) 東十両4枚目で6勝5敗
*1927年5月場所(開催地:東京) 東十両12枚目で2勝4敗
*1927年10月場所(開催地:京都) 西十両3枚目で8勝3敗
という成績だった。汐ヶ濱は関西本場所で好成績を挙げたことでこのような変則的な昇進ができたのである〔なお、このような変則的な番付編成はその後さまざまな試行錯誤を重ねて、春秋園事件のあった1932年一杯まで続いた。〕。しかし汐ヶ濱は新入幕の場所を3勝8敗と負け越した。翌5月場所は1月場所の成績を元に作成されたので、幕内力士が翌場所には幕下へ陥落
したという珍しい記録を残した。いったん幕下へは下がったものの再び番付を上げ、「潮ヶ濱」と改名した後の1930年1月場所で再入幕を果たした。このときは前2場所の成績が番付編成の基準だったので潮ヶ濱は翌3月場所と2場所続けて幕内に在ったが、2勝9敗、5勝6敗と2場所とも負け越し、再び十両へ陥落した。
「潮ノ濱」と改めた後の1932年1月、春秋園事件が勃発した。天竜大ノ里ら西方幕内力士が挙げて相撲協会を脱退すると、錦洋を中心とする東方幕内力士も呼応して「革新力士団」を結成し脱退した。東十両7枚目と発表された潮ヶ濱も革新力士団に加わり、錦洋を補佐する役割を担った。脱退力士たちが合流して大日本相撲連盟(のち関西角力協会)を結成した後も幹事を務め、天竜らを助けた。1937年11月6日、死去。39歳だった。潮ヶ濱死去の翌12月11日、関西角力協会は解散した。
小柄で非力だったが、それを動きの速さと巧さで補った。突っ張りから左四つに組み、寄りや足癖を放つ取り口だった。仕切りから立ち上がる瞬間に全身を細かく動かす独特の癖があった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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