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潮崎 哲也(しおざき てつや、1968年11月26日 - )は、徳島県鳴門市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 現役時代は西武ライオンズに所属。魔球と呼ばれた〔週刊ベースボール、2004年11月29日号、P.55〕シンカーを駆使する投球術で、同球団の黄金期を支えた。から西武二軍監督へ就任。 == 経歴 == === アマチュア時代 === 鳴門高校ではストレートとカーブを持ち球としていたが決め球がなく〔、控え投手兼外野手という時期が続いた〔Number、2004年11月11日号、P.70〕。このためフォークボールやパームを習得しようとしたが、うまく行かなかったという〔週刊ベースボール、1999年6月14日号、P.12〕。3年生の春に高松西高と練習試合を行なった際に同じサイドスローの相手投手がシンカーを投げており、監督の勧めもあって習得に挑戦したという〔週刊ベースボール、1997年7月14日号、P.55〕。握りと手首の角度をカーブの逆にしてみたところ1球目から驚くほど落ちるシンカーが投げられ、楽に三振が取れるようになり、同年夏の徳島県大会でチームが決勝まで進む原動力となった〔週刊ベースボール、1997年7月14日号、P.56〕。なお、決勝では池田高校に敗れて甲子園出場はならなかった。 卒業後は松下電器へ入社し、同社保有の社会人野球チーム松下電器野球部へ入部。勤務先の月給は11万円強と高額ではなかったものの好きな野球ができて嬉しかったという〔。監督の鍛治舎巧に素質を評価されて〔毎日新聞、1999年7月5日付夕刊、P.3〕1年目から先発を務め、の都市対抗野球大会に初出場。の都市対抗では1回戦で日立製作所を破って勝利投手となったが、2回戦では同大会の久慈賞を受賞したNTT東海の上原勝男と投げ合って敗戦投手となっている。 同年のソウルオリンピック(以下、五輪)では19歳という最年少で日本代表に選ばれ、同じメンバーで参加した五輪直前のIBAFワールドカップで好投。特に対オランダ戦では6回1/3を投げて12個の三振を奪うなど、シンカーが威力を発揮した〔別冊宝島1545号、宝島社、P.66〕。五輪では野茂英雄や石井丈裕と共に先発ローテーションを構成し、予選リーグ第3戦の対オランダ戦で先発して5回を2安打8奪三振の内容で勝利投手となった。また、同大会では予選リーグ第1戦以外の4試合全てに登板して8回2/3を投げ1失点と、影のMVPと呼ばれるほどの活躍〔別冊宝島1545号、宝島社、P.70〕で銀メダル獲得に貢献した。なお、決勝の対アメリカ戦では6回から2イニングを完璧に抑えたが、監督の鈴木義信が迷いながら続投させた〔別冊宝島1545号、宝島社、P.68〕8回にティノ・マルティネスに外角低めの直球を打たれ、左翼席上段まで届く本塁打にされている〔別冊宝島1545号、宝島社、P.71〕。 翌の都市対抗では大阪府予選の第一代表決定戦で野茂と投げ合い〔、この試合は12三振を奪いながら敗れたものの本大会に出場。準決勝でプリンスホテルと対戦し、10回1/3を投げ抜いた末に敗戦投手となった。同年は野茂や与田剛とともに社会人三羽ガラスと並び称され〔週刊ベースボール、1990年5月7日号、P.128〕、この年のプロ野球ドラフト会議で西武に1位指名されて入団。契約金、年俸はそれぞれ7,800万円、840万円(いずれも推定)で、担当スカウトは浦田直治と鈴木照雄だった〔読売新聞、1989年12月5日付朝刊、P.19〕。また、背番号は松沼雅之が着けていた16になっている。社会人時代に野茂や与田、佐々岡真司らの投球を目の当たりにしていた事で、プロ入り後に気持ちの余裕が生まれたという〔週刊ベースボール、2004年11月29日号、P.56〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「潮崎哲也」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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