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黒潮会(こくちょうかい)は、日本の海軍省を担当していた記者クラブである。1894年(明治27年)頃創設の潮沫会(ちょうまつかい)を前身とし、平時の軍政から有事の戦況まで日本海軍に関する新聞報道に携わった。 == 沿革 == 黒潮会の前身である海軍省記者クラブの潮沫会が誕生したのは、日清戦争(1894-1895年)中である。最古の記者クラブとされる同盟新聞記者倶楽部設立の3-4年後で、最初期の専門記者クラブである外務省担当の霞倶楽部や陸軍省・参謀本部担当の北斗会と同時期である〔佐々木(1999年)、279頁。〕。次の日露戦争の際には、海軍省からの公報の提供や記者説明会(ブリーフィング)が潮沫会を通じて実施された〔佐々木(1999年)、219-220頁。〕。 大正時代には黒潮会と改称した。1925年(大正14年)5月時点での会員数は、33人(各社1人)であった〔『黒潮会員名簿 一四・五・三調』 アジア歴史資料センター(JACAR) Ref.C11080429600〕。なお、1924年(大正13年)には、海軍省の広報部門として海軍軍事普及委員会(1932年に軍事普及部と改称)が設置され、黒潮会への対応窓口となっている〔佐々木(1999年)、374頁。〕。 昭和初期には、海軍が比較的に政治色に乏しかったことから、報道関係者の間で黒潮会が重視されない時期もあった。しかし、1937年(昭和12年)に日中戦争が開始されると注目が集まり、特に政治的影響の大きい山本五十六海軍次官の会見参加のため黒潮会員となる者が現れ、次官会見は立ち見が出る盛況となった。そこで、『東京朝日新聞』・『都新聞』・同盟通信社の記者が中心となり、弱小報道機関の記者を除名する会員整理を行った。『東京朝日新聞』の杉本健によれば、株式投資家に情報提供することを目的とした会員も1人か2人あり〔杉本(1985年)、137頁。〕、そうした悪質会員を粛清して新聞記者の体面を正すことで海軍に対する発言力を強化する意図だったという〔杉本(1985年)、323-324頁。〕。 また、日中戦争開始後、戦況報道など社会面の海軍関連記事が多くなったが、黒潮会は政治部記者のみを受け入れていたため、社会部記者から不満が出るようになった。海軍大臣官房でも社会部記者にはオフレコが通用しないと懸念していたが、日中開戦後に設置された大本営海軍報道部(海軍省軍事普及部と兼務)も加わっての交渉の結果、黒潮会とは別に社会部記者室が設置された。その後、太平洋戦争開始と同時の1941年(昭和16年)12月8日に社会部記者も黒潮会への正式加入が認められた〔杉本(1985年)、324-326頁。〕。なお、その直前の同年11月28日には「新聞の戦時体制化に関する件」が閣議決定され、これを受けた新聞連盟の規約により12月中旬から記者クラブは各省庁に原則として1個へと制限されている〔佐々木(1999年)、373頁。〕。 戦時中には、軍属として徴用された従軍記者である海軍報道班員制度が誕生したが、黒潮会と直接の関係は無い。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「黒潮会」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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