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沢木欣一[さわき きんいち] 沢木 欣一(さわき きんいち、1919年(大正8年)10月6日 - 2001年(平成13年)11月5日 )は、富山県出身の俳人。「風」を主宰、戦後の社会性俳句を主唱した。妻は俳人の細見綾子。 == 経歴 == 富山市生まれ。父が朝鮮で教職にあったため、幼少から中学卒業までを朝鮮で過ごす。金沢の第四高等学校に入学した1939年より俳句をはじめ、「馬酔木」「寒雷」などに投句、加藤楸邨、中村草田男に師事。1942年、東京帝国大学国文科入学。1943年、召集を受け旧満州の牡丹江の部隊に配属。遺稿になるかもしないと考え、句集の草稿を後に妻となる細見綾子に託す。1944年、綾子の尽力で第一句集『雪白』出版。9月に東大卒業。 1946年、金沢で原子公平らとともに「風」を創刊。同誌には金子兜太なども集まり、50年代より社会性俳句議論の中心となる。1947年、綾子と結婚。また金沢大学で講師の職につく。1956年、第二句集『塩田』を出版。同年、東京都武蔵野市に転居し、文部省勤務となる。1966年、東京藝術大学助教授に転任。70年同教授。1987年、大学を定年退職し同名誉教授。また俳人協会会長に就任。1993年、勲三等旭日中綬章受勲。1995年、句集『眼前』にて第10回詩歌文学館賞を受賞、『昭和俳句の青春』にて第10回俳人協会評論賞を受賞。1996年、句集『白鳥』にて第30回蛇笏賞を受賞。2001年11月5日、死去。「風」は、翌年3月号の沢木の追悼特集号をもって終刊。門下に檜山哲彦など。 戦後より「風」誌を中心に社会性俳句を主唱。社会性俳句を社会主義イデオロギーを根底に持つ俳句と捉え政治性をはっきりと打ち出した。特に代表句「炎天に百日筋目つけ通し」を含む「能登塩田」連作(1955年)は話題を呼び、この連作を含む句集『塩田』は西東三鬼の激賞を受ける。日米安保条約改定後の1960年頃からは社会性を後退させ写実中心の作風に移行、正岡子規の写生説の見直しを行いつつ「即物具象」のスローガンを掲げた。後期の代表作に瓢湖での作「八雲わけ大白鳥の行方かな」(『白鳥』)がある。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「沢木欣一」の詳細全文を読む
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