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濃越同盟(のうえつどうめい)は、元亀3年(1572年)11月20日に締結された美濃岐阜城主・織田信長と越後春日山城主・上杉謙信の軍事同盟である。 == 概要 == === 織田氏・上杉氏の関係と地域情勢 === 戦国期の東国・中央情勢において、東国では甲斐国の武田氏、相模国の後北条氏、駿河国の今川氏が甲駿相三国同盟を形成し、武田・後北条氏は同盟を背景に北信・北関東において越後上杉氏と敵対していた。一方、尾張国の織田氏は永禄8年に将軍足利義昭を奉じて上洛すると義昭を通じて諸大名との外交を展開し、甲斐の武田信玄とは同盟関係を築き、越後上杉氏との接触していた。 甲斐武田氏と越後上杉氏の北信を巡る川中島の戦いは永禄4年の第四次合戦を契機に収束し、永禄12年末には織田氏の同盟相手である三河の徳川家康と協調して駿河今川領国への侵攻を開始し(駿河侵攻)、相模後北条氏との関係破綻も招いた。後北条氏は駿河侵攻後に武田と手切となった家康に加え越後上杉氏との和睦・同盟を持ちかけ(越相同盟)、武田氏に対抗する。 武田氏はこれに対して信長・将軍義昭との関係を通じて対抗を図り、越後上杉氏との和睦を開始し(甲越和与)、越相同盟を妨害する。越相同盟は上杉・北条両者の不破から成立せず、元亀2年(1571年)末には武田・北条間の甲相同盟が回復する。 甲相同盟を背景に武田氏は遠江・三河方面への侵攻を開始し、三河徳川氏と敵対する。信長はこのころ殿中御掟などの政治方針をめぐって将軍義昭と対立し、義昭は信長打倒を画策した武田氏や越前の朝倉義景、本願寺や北近江の国衆である浅井長政らを糾合して信長包囲網を結成した。 元亀3年、信長は甲越和与のため奔走していたが、信玄は10月初旬に将軍義昭に応じた三河・織田領への軍事的侵攻(西上作戦)を開始し、上杉謙信に対しては石山本願寺や神保氏・椎名氏ら越中の諸将を調略して反乱を起こさせた(越中大乱)。これにより謙信は越中に釘付け状態となった。 当時、織田軍は浅井・朝倉のほか、三好義継・松永久秀ら畿内の諸将による反乱鎮圧にも当たることを余儀なくされ、各地に軍を分散しており、武田軍に当たる余力は無かった。遠江の徳川家康も10月中旬に一言坂の戦いで大敗し、独力で武田軍に対抗することは不可能であった。 信玄の行動に危機感を抱いた織田信長は上杉氏に対して協力をもちかけ、軍事同盟を締結するに至るのである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「濃越同盟」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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