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池田富保[いけだ とみやす]

池田 富保(いけだ とみやす、1892年5月15日 - 1968年9月24日コトバンクサイト内の記事「池田富保 」の記述を参照。同リンク先にある『渡し守と武士』を池田は監督したが、製作年も「日活で初めて女優を起用」の旨の記述も誤りである。〕)は、日本の映画監督脚本家俳優である。旅役者としてスタート、映画俳優尾上 松三郎(おのえ まつさぶろう)として映画のキャリアを始める〔。晩年は映画監督を廃業し、映画俳優望月 健佐(もちづき けんすけ)として東映京都撮影所作品に出演した。
== 人物・来歴 ==
1892年(明治25年)5月15日兵庫県に池田民治として生まれる〔。
旅役者であったが、日活のスター俳優・尾上松之助に発見されて映画俳優となる〔。1921年(大正10年)、日活京都撮影所に入社、「尾上松三郎」を名のり〔、同年3月10日公開の牧野省三脚本・監督、尾上松之助主演による大作『実録忠臣蔵』に出演する。このころ、松之助に勧められて匿名でシナリオを書いたところ、評判となる〔『日本映画の若き日々』(稲垣浩、毎日新聞社刊)〕。
1923年(大正12年)9月1日の関東大震災ののち、日活の東京・向島撮影所から現代劇部のスタッフが移転してくる流れのなかで、俳優から演出部に転向、1924年(大正13年)1月7日、『渡し守と武士』を監督して映画監督としてデビューした。同作は、「日活京都の時代劇」で初めて女形に代わって、女優を起用した作品である〔。
1932年(昭和7年)8月、中谷貞頼専務による池永浩久所長以下200人解雇事件で日活を抜け、1933年(昭和8年)、池永がJ.O.スタヂオ内に設立した太秦発声映画の設立に参加し、同社でトーキー映画『博士の子』を監督する。やがてJ.O.スタヂオの東宝色が強くなるにつれ、日活に戻る。
1942年(昭和17年)4月の合併で設立した大日本映画(大映)に残留し、日活京都撮影所は大映京都撮影所と名を変えたが、同撮影所で同年、『伊賀の水月』を監督し、同年8月13日、同作は紅系で公開された。
脚本家としては「滝川紅葉」「池田菁穂」と名乗り、監督作ではなく脚本単独でも執筆した。
第二次世界大戦後は、1946年(昭和21年)、池田は大同映画を設立、橘公子らを大映から引き抜こうとしたが、映画製作をすることはできなかった。
1953年(昭和28年)8月5日公開の新東宝作品『鞍馬天狗と勝海舟』を最後に監督業を廃業、「望月健佐」名義で東映京都撮影所作品に俳優として出演した。
1968年(昭和43年)9月24日死去〔。満76歳没。夫人は尾上松之助の実妹〔『日本映画の若き日々』(稲垣浩、毎日新聞社刊)〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「池田富保」の詳細全文を読む



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