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瀧谷不動明王寺[たきだにふどうみょうおうじ]
瀧谷不動明王寺(たきだにふどうみょうおうじ)は大阪府富田林市にある真言宗智山派の仏教寺院。日本三不動のひとつ〔いずれの寺院をもって「日本三不動」と見なすかについては諸説ある。〕。山号は瀧谷山。正式な寺号は明王寺。 一般には山号の瀧谷山にちなんで滝谷不動、滝谷不動尊と言う。また、「目の神様」「芽の出る不動様」などと呼ばれる。 ==歴史== 寺伝によれば、821年(弘仁12年)に空海が龍泉寺に参籠したときに、国家安泰、万民化益を願い、一刀三礼で不動明王・矜羯羅童子(こんがらどうじ)・制多迦童子(せいたかどうじ)の像を刻み、それら3体の仏像を祀るために諸堂が造営されたことを起源とするという。造営当初は今より、約1km離れた嶽山(だけやま)の中腹にあり、広壮優美な堂塔・伽藍が整えられていたという。 南北朝時代になると楠木正成が嶽山に築城し、守護仏として瀧谷不動明王寺の不動明王を崇敬した。1360年(正平15年)に足利義詮が獄山城・金胎寺城(こんたいじじょう)を攻め、そのときの兵火で諸堂が焼失した。伝承によれば、このときに不動明王・矜羯羅童子・制多迦童子は滝の下に移されて焼失を免れた。その後、盲目の老僧が現れて、瀧谷不動明王寺の不動明王の霊験を人々に説いて、二間四面の小堂を建立して礼拝していたが、まもなく老僧は晴眼(せいがん)(眼が見えること)になり、姿を消したという。この盲目の老僧は、弘法大師の化身であるとも、また、弘法大師が作った不動明王が霊験あらたかであることを教えたと伝えられている。この説話により、眼病平癒を願う参詣者が多い。 1462年(寛正3年)に畠山政長と畠山義就との間で獄山において合戦があり、そのときの兵火で再び焼失。慶長年間(1596年~1615年)に三度目の再興が行われて、現在に至っている。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「瀧谷不動明王寺」の詳細全文を読む
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