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瀬上 景康 (せのうえ かげやす、天文22年(1553年) -元和3年(1617年)7月21日)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将。陸奥の戦国大名 伊達氏の家臣。伊達輝宗・伊達政宗に仕えた。通称は初め平三郎、中に中務、のちに摂津。陸奥仙台藩の家格は御一家。 == 生涯 == 天文22年(1553年)、信夫郡大笹生城主瀬上定康の子として生まれる。 〔瀬上氏は、伊達氏第5代伊達宗綱の3男瀬上肥後守行綱を以て先祖とする。行綱は嘉元年中(1303年~1305年)に将軍久明親王から、信夫郡瀬上邑を賜り、瀬上を姓とした。〕 永禄11年(1568年)4月、伊達郡小手荘小嶋口(伊達郡川俣町小島)に於ける相馬盛胤と伊達輝宗の戦において、瀬上平三郎景康は抜群の忠功を挙げ〔『伊達世臣家譜』に於いては、この事跡のことを、景康の父の瀬上平三郎定康の事と記している。〕、輝宗より伊達郡御代田郷(伊達郡旧月舘町御代田)の内数箇所の地を恩賞として賜った。 天正4年(1576年)8月、信夫郡大笹生城主〔瀬上氏第8代瀬上伊豆康秀の時世に信夫郡大笹生城に移り住む〕瀬上三郎景康は、伊達輝宗に従い相馬盛胤との戦いの為、伊具表に出陣する。瀬上三郎景康は軍を率い、飯坂宗康・大波長成・須田左馬之助らとともに13番備で出陣する。 天正13年(1585年)11月、安積表に二本松義綱救援として佐竹義重・蘆名亀王丸名代・二階堂阿南・岩城常隆・石川昭光・白河義親ら連合軍が総勢3万余り率いて須賀川方面より攻撃してきた。俗に言う人取橋の戦いである。瀬上中務景康は中島宗求・浜田景隆・桜田元親らとともに本宮城に布陣し、その後、乱戦となったが、翌日の連合軍退却により、人取橋の戦いは終結した。 天正16年(1588年)5月15日、伊達政宗は石川光昌謀反の討伐のため米沢城を出陣。瀬上中務景康は信夫郡庭坂の麓に於いて、伊達本隊を桑折政長とともに御迎えし御酒を進上した。同月22日、石川光昌領地の小手森城攻撃に出陣した。 天正16年(1588年)6月15日、佐竹義重・石川昭光・岩城常隆らが主とする連合軍が再び安積表に攻撃してきた。郡山城(城主は郡山頼祐)を攻める為であった。俗に言う郡山合戦である。伊達政宗は郡山頼祐の救援依頼により出陣。防備のため福原城の前に御陣所を備える作戦にでた。その為、瀬上中務景康は福原城(安積郡福原城。城主は福原孤月斎)・飯坂宗康と大嶺式部は窪田城(城主は中村右衛門)・大條宗直は高倉城へ城請取りに遣わされる。 そんな郡山合戦の最中にも、相馬義胤は田村宗顕領への侵入を企て、度々攻撃をしかけて来た為、同年7月9日、瀬上中務景康は常葉城(城主は常葉伊賀)を守備する田村清康に増援部隊として派遣され、その警固にあたった。 郡山合戦は、その後、多少の小競り合いが発生したが、同月16日、伊達政宗名代の留守政景 と連合軍側名代の石川昭光の対面の義により、和睦となった。実に久々の兄弟同士の対面でもあった。 天正17年(1589年)4月21日、岩城常隆が突如として田村宗顕の田村領に攻め入り、田村郡鹿股城(城主は鹿股久四郎、増援として福原孤月斎)は落城する。この時、鹿股久四郎と福原孤月斎は岩城常隆に侘び、三春城に退いた。その為、伊達政宗の命により、瀬上中務景康は桑折宗長・桑折政長・飯坂宗康・大條宗直らと共に、田村宗顕の増援部隊として再び三春城に派遣され、田村氏領地の警固に赴いた。そんな最中、同年5月18日、伊達政宗が突如として相馬境の新地箕頸山城・駒峯城を攻める作戦を発令し、瀬上中務景康は、大條宗直・桑折政長とともに田村領より召し返され、相馬表攻擊に転身して出陣した。代わりに田村氏田村宗顕 (戦国大名)の三春城の警固には、伊達成実・白石宗実・片倉景綱の部隊が差遣わされた。 天正17年(1589年)6月5日、摺上原の戦いにより、伊達政宗は蘆名義広に勝利、居城を会津黒川城に移す。同年9月28日、その会津黒川城に於いて、瀬上中務景康は伊達宗清・増田宗繁と共に伊達政宗より饗せられる。 天正19年(1591年)、伊達政宗が奥州仕置により岩出山に移る際、これに従い、今までの功を賞され采地を若干賜る。 元和3年(1617年)7月21日、死去。享年65。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「瀬上景康」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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