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瀬川康男 : ウィキペディア日本語版
瀬川康男[せがわ やすお]
瀬川 康男(せがわ やすお、1932年4月5日 - 2010年2月18日)は、日本の画家版画家絵本作家愛知県岡崎市出身。
福音館書店こどものともの仕事を皮切りに、新しい技法を次々と使いながら多彩なタブロー、版画、スケッチ、絵本の制作を続けた〔1998年愛知県刈谷市美術館『いのち・ものがたる絵たち 瀬川康男展』 〕。
彼の初期の絵本は松谷みよ子松野正子などの文に挿絵をつける形で作成されたが、1975年以降は文・絵ともに自作の絵本も制作。その仕事は、童画の枠を超えた現代的な「児童出版美術」の域に達し〔上笙一郎「現代児童出版美術の成立」『日本の童画 8』69-71頁〕、BIB(ブラチスラヴァ絵本原画展)グランプリや国内の出版文化賞を受賞するなど、国内外で高い評価を獲得している。
なお年・名前・仕事の協力関係とも似通っている瀬川拓男は親族ではなく、血縁・家系とも他人である。
== 略歴 ==
子供時代は外遊びも好きだったが、船乗りであった父が購読していた南画講座雑誌「南画鑑賞」の模写も繰り返し楽しみ、小学生にしてすでに池大雅浦上玉堂を好んでいた。13歳、中学生になって、日本画家 山本恵川(やまもとけいせん)に入門し日本画を約1年学ぶ〔「絵本作家のアトリエ」『母の友』2012年2月号 http://fukuinkan.cocolog-nifty.com/hahanotomo/2011/12/index.html (のち単行本『絵本作家のアトリエ1』に収録。〕。
愛知県立岡崎北高等学校に入学後、美術部で洋画を描き始め、演劇部では舞台美術を担当する〔『ユリイカ--総特集 絵本の世界』第34巻第3号/2002年2月臨時増刊号 「作家を訪ねて--瀬川康男--絵の「顔」を求めて (聞き手 アーサー・ビナード)」pp.84~93 青土社〕。一年先輩には杉浦直樹、1年後輩に辻村益朗がいた〔辻村益朗「想い出の記」『月刊絵本--特集 現代の絵師 瀬川康男』〕 。
1951年、東京芸術大学の受験に失敗し、東京の下宿で浪人生活を送る〔『絵本作家のアトリエ』によれば舞台芸術学院に通ったという。〕が、結核に罹患して3-4年間の入院生活を送る。絵はこの間も独学で描き続ける〔「瀬川康男●ききがきノート」『月刊絵本--特集--現代の絵師 瀬川康男』〕。
退院して岡崎に戻った後、23歳でふたたび東京に出て結婚し四谷に住む〔。松谷みよ子と知りあい〔松谷は「民族芸術を創る会」で知り合ったと『松谷みよ子の本 別巻 松谷みよ子研究資料』年譜529頁で書いている。〕、1957年瀬川拓男が松谷らと一緒に興した人形劇団太郎座に、活動の一環として子供の絵の会ができると、その指導を手伝うため、太郎座の拠点となっている家に通い始める〔『戦後人形劇史の証言-太郎座の記録』91頁。瀬川拓男は人形劇活動の中で松谷みよ子に出会い、1955年に結婚している。〕。瀬川は拓男・松谷みよ子夫妻が再話して刊行する『信濃の民話』(1957年)、『秋田の民話』(1958年)に挿絵を提供。瀬川は太郎座本講演のポスターやパンフレットのイラストを引き受ける一方〔デザイン構成は辻村益朗が担当。『松谷みよ子の本 6 絵本』332頁〕、福音館書店の雑誌「母の友」にも挿絵を描いている。
1960年初めての絵本『きつねのよめいり』が福音館の月間絵本こどものとも53号として出版される。これは、松谷みよ子の文〔文はもとは「おさとぎつねのおよめいり」の題で「母の友」(1959年2月号もしくは6月号)に掲載されたもの。『松谷みよ子の本 2』646頁・『松谷みよ子の本 別巻 松谷みよ子研究資料』33頁〕に辻村益朗のレイアウトで完全原稿の形に仕上げられ、福音館書店の編集者だった松居直のもとに持ち込まれたもの。松居は瀬川の力量を見抜き、「こどものとも」で取り上げることを即座に決めたが、同時に動きと物語性が足りないと直截に指摘もしたという〔『絵本を見る眼』97-99頁〕。この本は1967年に「こどものとも 傑作集」の一つとして単行本化されている。
松居は瀬川から「力強いスケールの大きなもの」を引き出すため、君島久子訳による中国の民話「つきをいる」の絵本作成を依頼し、出来上がった『つきをいる』は1962年、こどものとも79号として配本される。松居はこの第2作を「動きは出てきたものの、まだ固さが残っている」と評している〔『絵本を見る眼』99頁〕。
同じく1962年後半松居は、アメリカからカラーセパレーションによる原画作成のための印刷用フィルム材料を持ち帰り、瀬川に提供している。松居はまた松野正子の「ふしぎなたけのこ」の文による絵本の製作を瀬川に依頼〔『絵本を見る眼』100-104頁〕。動きと物語性に富んだ絵本として完成した『ふしぎなたけのこ』は1963年にこどものとも87号として配本された。
1965年、松居や友人の堀内誠一〔堀内誠一『父の時代私の時代』140頁によれば、堀内と瀬川は1964年、フジアートの展覧会の企画で知り合っている。〕の縁で瀬田貞二の知遇を得る。堀内と瀬川は瀬田を「浦和の師匠」と呼んで、奥三河の花祭を始め日本各地を一緒に旅してまわる〔瀬田貞二「旅のお仲間」『月刊絵本--特集●現代の絵師 瀬川康男』〕〔堀内誠一『ぼくの絵本美術館』189頁〕。また瀬田の教えで日本の木版に興味を持ち、奈良絵本丹緑本(たんろくぼん)、江戸の版本などを収集。
1965年、松谷みよ子と童心社の稲庭佳子が乳幼児のための「あかちゃんの本」を企画している時に、挿絵担当に手を挙げる。稲庭を編集者として文・松谷、絵・瀬川、デザイン・辻村で実現した『いないいないばあ』はそれまでほとんどなかった0歳児向けの絵本で、大変なロングセラーとなった。同じシリーズに『いいおかお』(1967年)、『もうねんね』(1968年)、『あなたはだあれ』(1968年)。この本のイラストで用いた手法を瀬川は「典具描法」と呼んだ〔「典具帳」という薄い和紙の上から描いた。『絵本の作家たち IV』28頁〕。
1966年には印刷会社で不要になったリトグラフ(石版画)のプレス機を譲り受け、『ちびくろサンボのぼうけん』などリトグラフによる絵本を作成し始める。
1966年には『ふしぎなたけのこ』が「こどものとも傑作集30」として単行本化され、翌1967年にBIB(ブラチスラヴァ絵本原画展)の第1回めのグランプリを受賞する。これには瀬川本人も驚いたと語っているが、受賞後は仕事の依頼が相次ぎ忙しくなる〔『絵本の作家たち IV』27頁〕。
このあとヨーロッパで約2カ月滞在して、美術館を見て回り、細密画に触発される。
1975年から冨山房の地下スペースをアトリエに借りてリトグラフの製作にあたる。
1977年、群馬県・北軽井沢に移り住む〔〔http://www.lcv.ne.jp/~morinoie/segawayasuo.html〕。1982年(昭和57年)年に長野県・青木村に移りアトリエを構える〔http://www.shinshu-liveon.jp/www/topics/node_145839〕。瀬川を信州に尋ねた松本猛は「上田市から車で三十分ほど山へ入ったところ」と書きとめている〔『ぼくの出会った絵本作家 子どもをみつめたアーティストたち』190-201ページ 大和書房 1995年〕
1981年には、初の自作絵本『ふたり』(和紙にリトグラフ)を冨山房から出版。この絵本はリトグラフ制作のために場所を提供してくれた冨山房への「お礼」と瀬川は述べている〔。1983年の『ぼうし』も自作絵本である。このあと1984年から1989年にかけて瀬川は絵巻平家物語に取り組む。文章は木下順二。資料は膨大、取材も必要で、瀬川自身が「たいへんな仕事」と振り返るほどであった。
1996年から2001年ごろ、体調を崩して入退院を繰り返し、その後も自宅で療養する。2004年に久々の絵本となる、『ひな』と続編『ひなとてんぐ』を童心社から出版〔愛犬「ひな」が登場する。〕。
2010年2月18日、77歳で死去。直腸癌であったことが公表された〔訃報:瀬川康男さん77歳=絵本画家「いないいないばあ」毎日jp:2010年2月19日 18時49分(2009-02-20閲覧) 〕〔「いない いない ばあ」の瀬川康男さん死去 YOMIURI ONLINE 2010年2月19日20時23分(2010年2月20日閲覧) 〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「瀬川康男」の詳細全文を読む



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