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瀬戸 恵子(せと けいこ、1966年4月25日 - )は、フリーランサー、女優、タレント。日本共産党の候補者であった瀬戸恵子とは別人である。 ==来歴・人物== 1966年、静岡県熱海市の生まれ。中学2年生の時に『東京宝映(現:宝映テレビプロダクション)』に入所する〔本来は歌手志望であった為、それまで数多くのオーディションを受け続ける。あるラジオの歌番組に応募、本選に出場した際に審査員の先生から「これからは可愛いだけじゃだめなんだよねぇ。あなたはまだ若いから、もっともっと人生経験を積んで本当の歌を唄えるように、これからを頑張って生きなさい」との助言をもらったことが役者への志を決定付けた、と後に述懐している。『歩み〜第一期 転機の言葉』公式HPより、2007年閲覧。〕。15歳で親元を飛び出し単身上京、劇団制作の舞台『たけくらべ』に出演。1982年、昼ドラマ『燃える女(妻そして女シリーズ)』に子役として抜擢され、これが実質的な女優デビューとなった。以後、1983年に『おはようスタジオ』のレギュラーとなったほか、1984年の『欽ちゃんのどこまでやるの!?』では、ミニドラマで斉藤清六と共演するなどタレントとしても活躍。 しかし1986年には芸能界から距離を置くことになる〔この時の理由については、『欽どこ』出演でアイドル的な人気が高まったことにより、「汚れ役をやりたい」という自分の意向と周囲の扱いの間に生じたギャップに悩んだ結果、と語っている。『ニャン2倶楽部Z』(コアマガジン)2000年1月号、インタビューにおいて。〕。 その後の約12年間は一般人として様々な仕事と経験をする〔この期間に携わった業種は、一般事務・テレフォンアポイントメント・PR業・雑誌モデル・イベント制作・テレビ番組制作・タレントマネージャー・ブライダルビデオ撮影・引っ越しエプロン・店舗清掃・レンタルビデオ・不動産業・リサイクルショップ・バンケット業務・水商売・サービス業全般・農業など。自ら「フリーター代表」を標榜する所以は、これら多種多様の中で得た生き方と価値観に有るとされている。『歩み〜第三期 仕事=自分探し』公式HPより、2007年閲覧。〕。またこの間に、「幼少期の境遇や体験を通して素のまま・有りのままの自分を表現したい」という願望や欲望のようなものが沸き起こり、高まり、それは何時しか自らを昇華させる為の決意表明へと固まっていった。 1998年10月、成人映画(ピンク映画)で女優再デビュー〔日本映画データベース 瀬戸恵子 より。〕。ほぼ同じ頃にVシネマ、続いてビデ倫作品やインディーズへも進出し「演技派の熟女優」として一躍人気を博す。中でも1999年リリースの『義母さん もうガマンできない(監督:長崎みなみ)』は、卓越した演技力と女流監督のきめ細かい演出が相俟り、「女性視点による性表現」に新風をもたらす傑作となった。また、これら垣根を越え、役者として出演することにおいては一貫して本名を用いる〔それまでの業界では異例ともいえるこの事について、「本名でないと自分がやる意味がないと思う。私はやりたくてやっているのであって、仕事として偽ることや隠したいことと思われるのが嫌だから」と述べている。『ビデオ・ザ・ワールド』(コアマガジン) 2000年6月号、68頁-69頁〕。日本のAV・成人映画史上に於いても本名出演を果たした女優というのは極めて稀有である。 2006年8月、それまで断続的に続いていた女優業であったが、性教育関連教育(日本家族計画協会主催)修得をきっかけに引退を表明。自身の制作によるドキュメンタリー作品が最後の出演となった。 2016年全ての人が、「約束を果たす時期が来た」為、表現者としての活動を再開する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「瀬戸恵子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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