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瀬沼 夏葉(せぬま かよう、1875年12月11日 - 1915年2月28日)は日本の小説家、翻訳家、教師。本名は瀬沼 郁子(旧姓:山田)〔。アントン・チェーホフを初めて日本に紹介した〔中村喜和(1972: 1)〕。 == 生涯 == 高崎県高崎(現在の群馬県高崎市)で、種子業を営む父・山田勘次郎と母・よかの長女・郁子として生まれる〔中村喜和(1972: 5)〕。両親はともに正教会の信者であり、自身も早くから信者となった〔。1882年に主教のニコライ・カサートキンが高崎教会に来た際にはよかに連れられて他の信徒とともに前橋市まで出迎えに行き、大きくなったら駿河台の正教女子神学校に入学するよう勧められたという〔中村喜和(1972: 6)〕。1883年によかが結核のため亡くなったが、キリスト教徒である事を理由に先祖代々の墓所への埋葬を拒否されている〔。 よかの遺言に従い、1885年秋に単身上京して全寮制の女子神学校に入学した〔。わがままな性格のため長続きしないだろうという親戚の見方を覆し〔中村喜和(1972: 7)〕、非常に優秀な成績で1892年7月に同校を卒業している〔中村喜和(1972: 8)〕。卒業後は教理の教師として神学校に残り、同年に尚絅社から創刊された『裏錦』へ投稿を始めた〔中村喜和(1972: 10)〕。夏葉はこれを非常な楽しみとし、創刊号から1896年の46号までほぼ毎号投稿を続けていた〔杉山(1994: 5)〕。教訓的な傾向の強い文章が多かった〔中村喜和(1972: 11)〕が、若さもあって思想的な厚みや鋭さには欠けていたという〔中村喜和(1972: 13)〕。 また、この頃から『経国美談』など様々な文学作品を読み、内田不知庵が訳した『罪と罰』や二葉亭四迷訳の『片恋』がきっかけでロシア文学を研究したいと考えるようになった〔中村喜和(1972: 16)〕。このため1896年にニコライからロシア語の参考書を与えられ、瀬沼恪三郎の協力でロシア語を習得した〔中村喜和(1972: 18)〕。これに先立つ1894年にはニコライ堂での演奏がきっかけでラファエル・フォン・ケーベルに師事し、他の教師とともに毎週ピアノを習うようになった〔中村喜和(1972: 47)〕。1897年12月に恪三郎と結婚し、これを機に教師を辞めたとみられている〔。結婚後は裏錦への投稿も止めたが、恪三郎やロシア人からロシア語を学び続けて理解が上達していった〔中村喜和(1972: 27)〕。 本野英吉郎の紹介を受けて1901年2月に恪三郎が尾崎紅葉を訪問して〔市川(1994: 10)〕郁子の入門が許可され、翌3月には女性の弟子としては初めて紅葉の号から一字をとって夏葉の雅号をもらっている〔市川(1994: 5)〕。文壇志向の強さをたしなめられながら〔市川(1994: 7)〕、紅葉の逝去する1903年まで指導を受けた。この間に小説や紀行文の習作を執筆するとともに、ロシア語を読めない紅葉と共同でレフ・トルストイの『アンナ・カレーニナ』、イワン・ツルゲーネフやアントン・チェーホフの短編などを翻訳・発表している〔市川(1994: 18)〕。アンナ・カレーニナの冒頭2章は1902年に紅葉が創刊した『文藝』の第1号に掲載されており、創刊自体がこの作品掲載のためという面もあったという〔中村(1972: 34)〕。なお紅葉の死後にアンナ・カレーニナの翻訳は中絶したが、トルストイの没した1910年に読売新聞の追悼特集の中で夏葉訳の一部が掲載された〔中村喜和(1972: 36)〕。 1903年にチェーホフ作品の初の日本語訳となる『月と人』(後の邦題:『別荘の人びと』)を『新小説』の8月号、続いて『写真帖』を同10月号に、それぞれ夏葉・紅葉の共訳として発表した〔。また、同年に紅葉が亡くなる前に弟子ら15名が見舞いのために1篇ずつ小説を書いた際、夏葉はの短編小説『公用』を訳している〔中村喜和(1972: 37)〕。紅葉の没後は完全に独立し、1904年にはドストエフスキーの『貧しき少女』(『貧しき人びと』の中の「ワルワーラの手記」部分)を訳して『文藝倶楽部』に発表した〔中村喜和(1972: 55)〕。 1909年2月には、報知新聞で夫とともに露探扱いされる根拠のない中傷記事が掲載された〔。同年、「家にばかりいるとクサクサする」として、当時としては異例なことに女性一人でロシアを旅行した〔中村喜和(1972: 62)〕。7月6日に敦賀港を出てウラジオストクに渡り、9月4日から同17日まで『みたまま(浦塩通信)』という記事を読売新聞に寄稿している〔中村喜和(1972: 63)〕。ウラジオストク滞在中にはなども訪れた〔中村喜和(1972: 64)〕。また、1909年にギ・ド・モーパッサンの『山小屋』を、1910年にはの『電車の上』、1911年にはマクシム・ゴーリキーの『クリミア物語』を翻訳・発表している〔。 1911年には再びロシアに旅立ち、1月に生まれたばかりの三女・文代子だけを連れて4月29日に品川駅を発ち、敦賀・ウラジオストクを経由してシベリア鉄道で5月18日にサンクトペテルブルクに到着した〔中村喜和(1972: 65)〕。なお、文代子は東京帝国大学に留学中だった10歳年下のロシア人学生アンドレーエフとの不倫関係により生まれた子とも言われている〔。サンクトペテルブルクではネフスキー通りの店で販売員として働いたが、リウマチが悪化したため8月で仕事を辞め、その後は日本語の教師を務めた〔。フィンランドの別荘に滞在中のレオニド・アンドレーエフを訪問して会えなかった話などを読売新聞に寄稿した後、帰国している〔中村喜和(1972: 66)〕。 1911年の年末から1912年の初頭に創刊間もない『青鞜』の賛助員となり、『叔父ワーニャ』を翻訳して同誌に連載した〔中村喜和(1972: 70)〕。1913年には『桜の園』が青鞜に掲載され、同年4月には叔父ワーニャとともに1冊の本として新潮社から出版されている〔中村喜和(1972: 74)〕。の『紫玉』を翻訳中の1915年2月に四男・葉一を出産したが、直後に急性肺炎にかかり、2月28日に40歳で逝去した。葬儀はニコライ堂で営まれ、遺体は雑司ヶ谷霊園に葬られた〔中村喜和(1972: 78)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「瀬沼夏葉」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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