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瀬田正忠[せた まさただ]
瀬田 正忠(せた まさただ)は、戦国時代の武将。通称清右衛門。名はのち「伊繁(これしげ)」。茶人として利休七哲に数えられ、官位に由来する「瀬田掃部」という名乗りで知られる。 出自は不明ながら〔武蔵国の出で、後北条氏に仕えていた説、近江国瀬田の出という説がある。〕高山右近の推挙により豊臣秀吉に仕え、天正12年(1584年)に小牧・長久手の戦いに従軍している。秀吉の関白就任に伴い、従五位下掃部頭に叙任。天正15年(1587年)の九州征伐、同18年(1590年)の小田原征伐等に従軍。小田原征伐では、徳川家康らが落城させた相模国玉縄城に古田重然と共に入り守備についた。また、天正16年(1588年)に後陽成天皇が聚楽第を行幸した際に、芝山宗綱と共に先導役を務めたとされるが、豊臣秀次と親しく、文禄4年(1595年)、秀次の粛清に連座して処刑された。〔秀吉の朝鮮出兵に強く反対していたという説もある。〕 千利休の高弟として知られ、大きな平高麗茶碗や、後にその名をとって「掃部形」と称されることとなる、大きな櫂先を持った茶杓を愛用し、「さらし茶巾〔平碗に水を入れ、琵琶湖に見立て、茶杓を瀬田の唐橋に見立て、その中に茶巾を入れて絞るという涼しげな作法。「洗い茶巾」とも。〕」と呼ばれる点前を考案したといわれている。 ==脚注== 〔
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「瀬田正忠」の詳細全文を読む
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