|
為平親王(ためひらしんのう、天暦6年(952年) - 寛弘7年11月7日(1010年12月15日))は平安時代の皇族で村上天皇の第四皇子。母は中宮藤原安子。同母兄弟に冷泉天皇、円融天皇。妻は源高明の娘。官位は一品式部卿まで昇った。染殿式部卿と称された。 ==経歴== 天徳2年(957年)父・村上天皇と対面する。康保2年(965年)、左大臣源高明の加冠により元服、翌年にはその娘を娶る。村上天皇は為平を愛し、その婚礼には自分が安子と婚礼した際の例にならって宮中の昭陽舎で実施させるなど、将来の皇位継承候補としての待遇を受けている。父は安子の実家である九条流(藤原師輔の一門)と賜姓皇族の筆頭である高明を為平の後見とすることで将来の安泰をはかったと考えられている。 翌年、父が崩御すると、為平の同母兄である冷泉天皇が即位する。この天皇は、容姿は美しいが狂気のふるまいが見られたことから、藤原実頼が関白(准摂政)を務めたが、聡明な為平がその皇太弟になると予想された。高明は親王が即位することで外戚になれることからその立太子を期待したと考えられるが、実際には守平親王(後の円融天皇)が皇太弟となった。これには為平親王の外戚で既に一上の地位を得ていた高明がさらなる権力を得ることに対する藤原氏側の危惧があったといわれている。この時には安子や師輔三女(安子の同母妹・源高明正室)も死去しており、九条流も高明と為平親王排除へと態度を変えたと考えられる。 その後、源高明は冷泉天皇を退位させようとしているとの風説で大宰府に左遷された(安和の変)。これは、勢力拡大を狙った源満仲と藤原氏による綿密に練られた高明排斥計画といわれる。しかし親王は貞元3年(978年)に輦車宣旨を受けて、式部卿に任命されて以後出家による退任まで32年間もその地位に留まり、更に遅くとも長徳3年(997年)までに一品に叙せられた。式部卿・一品は皇族中もっとも上位の者が叙任されるもので、円融天皇(法皇)及び一条天皇による政治的配慮があったといわれている。 寛和元年(985年)、娘の婉子女王が花山天皇に14歳で入内し女御となるが、天皇は僅か6ヶ月後に出家する。天皇の出家後、婉子女王は藤原実資と結婚し、長徳4年(998年)27歳の若さで卒去した。 寛弘7年(1010年)10月に出家し、その1ヶ月後に59歳で薨去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「為平親王」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|