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烏丸光広 : ウィキペディア日本語版
烏丸光広[からすまみつひろ]

烏丸 光広(からすまる みつひろ)は、江戸時代前期の公卿歌人能書家准大臣烏丸光宣の長男。官位正二位権大納言細川幽斎から古今伝授を受けて二条派歌学を究め、歌道の復興に力を注いだ。
== 生涯 ==
天正7年(1579年)に准大臣・烏丸光宣の長男として誕生。母は不詳。
経済的に恵まれた環境のもと、同9年(1581年)わずか3歳で従五位下に叙された。弁官蔵人頭を経て、慶長11年(1606年)1月参議に任じられて公卿に列したが、同14年(1609年)7月に起きた猪熊事件侍従猪熊教利による女官密通事件)に連座して後陽成天皇の勅勘を蒙り、官を止められて蟄居を命じられた。同16年(1611年)4月に勅免されて還任し、元和2年(1616年)2月権大納言に進み、同6年(1620年)1月正二位に昇ったが、これ以降官位の昇進は見られず、寛永15年(1638年)7月13日に薨去。享年60。初め西賀茂霊源寺に葬られたが、寛文3年(1663年)7月洛西太秦法雲院に移された。法名は法雲院泰翁宗山。伝記に孫・資慶による『烏丸光広卿行状』がある。
後水尾上皇からの信任厚く、公武間の連絡上重要な人物として事あるごとに江戸に下り、公卿の中でも特に江戸幕府側に好意を寄せていた。また、自由闊達な性格で逸話にも富み、多才多芸な宮廷文化人として、和歌茶道を得意とした。とりわけ歌道は慶長8年(1603年)に細川幽斎から古今伝授を受けて二条派歌学を究め、将軍徳川家光歌道指南役をも勤めている。書については、大変ユニークではあったが、寛永の三筆に決して劣らず、光広流と称される〔〔〔渡部 P.158〕。本阿弥光悦や俵屋宗達など江戸の文化人と交流があり、また、清原宣賢儒学を学び、沢庵宗彭一糸文守(いっしもんじゅ)に帰依して禅をも修めた〔渡部 P.157〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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