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烏介可汗 : ウィキペディア日本語版
烏介可汗[がらすかいかあせ]
烏介可汗呉音:うけかがん、漢音:おかいかかん、拼音:Wūjièkĕhàn、? - 846年)は、回鶻可汗国崩壊後の可汗昭礼可汗の弟で、彰信可汗の叔父〔『唐会要』巻98廻紇〕。初めは特勤(テギン、Tägin)〔特勤(テギン、Tägin)とは、突厥や回紇における皇太子もしくは王子に与えられる称号。たいていは可汗の兄弟に与えられる。『新唐書』では特勒と誤記される。〕だったが、回鶻可汗国が崩壊すると錯子山に割拠して可汗となった。原音はウゲ・カガン(Ügä Qaγan)〔山田信夫『北アジア遊牧民族史研究』〕。
==生涯==
開成5年(840年)頃、渠長(きょちょう:将軍)の句録莫賀(句録末賀、キュリュグ・バガ)は、北の黠戛斯(キルギス、Qïrqïz)軍10万騎を招き寄せて回鶻城(オルド・バリクか?)を破り、㕎馺可汗〔「㕎」は「厂+盍」と書く。〕と掘羅勿を殺してその牙帳〔帳幕(ゲル)のこと。〕を焼き払った。これによって回鶻可汗国は崩壊し、国人たちは各特勤を奉じて各地に散らばった。そのうち、可汗庭(かがんてい:可汗の牙帳)近くの13部は、烏介特勤(ウゲ・テギン、Ügä Tägin)を可汗に推戴し、南の錯子山に割拠した。 途中、烏介可汗らは太和公主まで護送する黠戛斯の達干(タルカン、Tarqan)〔達干(タルカン、Tarqan)とは、テュルク系遊牧国家における官名。〕らと遭遇した。烏介可汗はそれを見つけるなり達干らを殺し、太和公主を奉じて代わりに唐の天徳界まで護送してやった。
時に宰相の赤心、僕固(ボルク、Borqu)、特勤の那頡啜(ナイル・チュル、Nair čur)がおり、烏介可汗に臣従せず、犯塞〔長城を越えて中国領内に侵入すること。〕を欲していたため、烏介可汗は先に王子の嗢没斯(オルムズ、Ormz)を天徳軍戍将の田牟の所へ赴かせ、唐と接触をはかるとともに、赤心を殺害した。一方、那頡啜は赤心の7千帳をあわせて東へ逃れたが、のちに烏介可汗によって殺される。
会昌3年(843年)春、特勤の龐俱遮,阿敦寧の二部、回鶻公主密羯可敦の一部、外相の諸洛固阿跌の一部、牙帳大将の曹磨你らの七部、共に3万衆が相次いで幽州に降ったので、文宗は詔で諸道に配してやった。また、特勤の嗢没斯,阿歴支,習勿啜の三部、回鶻相の愛耶勿弘順、回鶻尚書の呂衡らの諸部が振武軍に降ってきたので、三部首領には唐の国姓である李姓を賜い、名をそれぞれ思忠,思貞,思恵,思恩と改めさせ、帰義軍使に充てた。その他唐に帰順しなかった者もおり、特勤葉被沽兄李の二部は南の吐蕃に奔走し、特勤可質力の二部は東北の大室韋に奔走し、特勤荷勿啜は東の契丹との戦いで戦死した。
回鶻尚書の僕固繹は幽州に至り、太和公主を幽州に帰すことを約束した。ある夜、河東の劉沔が兵を率いて烏介可汗の営に迫ったので、烏介可汗は驚いて東北の約400里外にまで逃げ去り、室韋の営に依った。このとき太和公主も同時に逃げ去ったが、烏介可汗に追いつけずにいたところを、豊州刺史石雄の兵と遭遇したので、ようやく唐に帰国できた。
会昌6年(846年)7月〔『資治通鑑』卷第二百四十八〕、烏介可汗の部衆が幽州に降った。また、烏介可汗は妹を室韋に降嫁させた。回鶻相の美権者逸隠啜は諸回鶻に迫って烏介可汗を金山(アルタイ山脈)で殺し〔『新唐書』では「黒車子(室韋)に殺された」とある。 〕、その弟である特勤遏捻を可汗に推戴した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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