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烏山寺町(からすやまてらまち)は、東京都世田谷区北烏山2丁目、4丁目、5丁目及び6丁目にかけて26の仏教寺院が立ち並ぶ地域の通称である。寺町の成立は関東大震災後の1923年(大正12年)に浅草、築地、本所、荒川などにあった寺院が集団で移転してきたのが直接的な契機とされるが、関東大震災の前から計画されていた東京の都市基盤の整備とも密接に関わっている〔『烏山寺町』6-12頁。〕。寺院の建築と緑豊かな環境が調和した烏山寺町の一帯は「世田谷の小京都」などと呼ばれ、1984年(昭和59年)には「せたがや百景」に選定された〔『せたがや百景』、56-59頁。〕〔『せたがや百景』、93頁。〕〔世田谷区 よくある質問と回答集 世田谷区役所ウェブサイト、2014年7月21日閲覧。〕。1975年(昭和50年)には、「烏山寺町の環境を守る会」が結成され、「烏山寺町環境協定」が締結されている〔『烏山寺町』60頁。〕〔『烏山の寺町』55-62頁。〕。 == 歴史 == === 背景 === 京王線の千歳烏山駅から北をめざして歩くと、15分ほどで烏山寺町に行き当たる〔『改訂・せたがやの散歩道 一歩二歩散歩』、236頁。〕。最初に目に入るのは、中央自動車道をくぐる手前の妙高寺である〔〔竹内、154-155頁。〕。烏山寺町のメインストリートにあたる寺院通り沿いや松葉通り、通りから入る脇道などに仏教寺院が立ち並び、寺町の一番北にある高源院まで合わせて26の寺院が存在する〔〔竹内、143-144頁。〕。 寺院移転が始まる以前、この一帯は東京府北多摩郡千歳村大字烏山の字松葉山、大野窪、丸山と呼ばれていた〔〔『烏山の寺町』2-4頁。〕。千歳村の中心部にあたる甲州街道から1キロメートル余り隔たっていたため、村はずれの一画として扱われていたという〔〔。民家はほとんどなく雑木林や畑作地、桑畑、ススキの生い茂る荒地などが広がり、現在の寺院通り沿いに建つ人家はわずかに2-3軒程度であった〔〔〔『烏山寺町のまちづくりのための中間レポート』11頁。〕。この地に多くの寺院が移転してきたのは、ほとんどが関東大震災の発生を直接的な契機とする〔〔。東京市中の浅草、築地、本所、荒川などにあった寺院の移転については、震災の前から計画されていた東京市の都市基盤の整備とも密接に関わっている〔〔。 東京市が江戸城の城下町から近代都市として変容するためには、旧来の市街地の区画改正や道路や上下水道などの大規模なインフラ整備が急務であった〔。1888年(明治21年)、東京市区改正条例が公布され、道路を始め河川、橋梁、公園、鉄道、屠場、火葬場、墓地などのインフラ改善・新設計画が決定した〔。条例は当時の東京15区のうち、約7割を対象とする大規模なものであった〔。ただし、その大規模さが支障となって事業の進捗が遅れ、1903年(明治36年)に計画が見直され縮小することになった〔。その後、1909年(明治42年)までに第一次市区改正事業が終了し、続いて1918年(大正7年)に第二次速成事業も完了した〔。しかし、計画のうち市場と港については未着手であり、下水道も大部分が未完成であった〔。 1919年(大正8年)には都市計画法(翌年1月1日実施)及び市街地建築物法が発布されて事業は具体化する運びとなった〔。この事業における都市計画区域とは、東京駅を中心とする半径約10マイル(約16.09キロメートル)の地域であり、旧東京市内と隣接する荏原郡、豊多摩郡、北豊島郡、南足立郡、南葛飾郡の5つの郡と北多摩郡から砧村と千歳村であった〔。都市計画区域における東部、北部、西南部の境界は、江戸川、荒川放水路、多摩川でそれぞれ区分けされていた〔。 都市計画法による事業が進み始めた1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が発生して東京は壊滅的な被害を受け、計画は変更を余儀なくされた〔。都市計画は「復興計画」と名称を改めて続行された〔。「復興計画」では、東京の近代都市化をめざして土地区画整備や道路、中央卸売市場、上下水道などのインフラ整備が実施され、事業は1930年(昭和5年)3月の復興事業局廃止によって終了した〔。その後に都市計画課が設けられて、東京市の都市計画事業は継続されることになった〔。 1889年(明治22年)の市区改正計画では、寺院境内にあった墓地を郊外に移転させる方針が採られたのを始めとして、東京市内にあった墓地の郊外への移転改葬が積極的に進められた〔。市区改正計画の進行により、青山霊園、雑司ヶ谷霊園、染井霊園、谷中霊園、亀戸に設けられた墓地が飽和状態となったため、新たに多磨霊園を造成して1923年(大正12年)4月に供用開始となった〔〔TOKYO霊園さんぽ 霊園を知る・めぐる 都立霊園公式サイト TOKYO霊園さんぽ、2014年6月21日閲覧。〕。 これらの計画が進んだにもかかわらず、東京市内には寺院と墓地が多く取り残されていてそれらの郊外への移転が都市計画上の課題となった〔。寺院と墓地が東京市内に多数残っていた理由は、当初から区画整理の対象外とされていたためだった〔。そのため特例が設けられて寺院と墓地は整理地区に編入できるように法が改正され、関東大震災後の1925年(大正14年)、東京市墓地改葬規則によって1934年(昭和9年)12月末日を期限として東京市内の共葬墓地は市外の墓地または納骨堂に改葬することが決まった〔。後には東京市内の区画整理地区内の墓地であっても、唐櫃〔『烏山寺町』7頁では「かろうと」とルビを振り、「火葬遺骨を収蔵する石室」と注釈を付している。〕への改葬であるならば許可を与えるという規定が追加された〔。これらの規定によって、東京市内に存在する寺院と墓地の郊外移転を促進し、都市計画を実現させる目的があった〔。 2010年(平成22年)に世田谷区立郷土資料館が発行した図録『烏山寺町』8-9頁によると、東京市内からの寺院移転はその時期によって2期に大別されるという〔。第1期は1888年(明治21年)の東京市区改正条例の公布に始まり、1919年(大正8年)の都市計画法の公布までの期間で、この時期には上高田(中野区)、梅里・松ノ木・高円寺南(いずれも杉並区)などの寺町が形成された〔。第2期は1923年(大正12年)の関東大震災発生から1929年(昭和4年)頃までの期間で、この時期に形成された寺町は東伊興(足立区)、萩中(大田区)、立石(葛飾区)、松原(世田谷区)、谷原・若葉町(いずれも調布市)、練馬(練馬区)などがある〔世田谷区松原の寺町は、築地本願寺の末寺のうち5寺院が1929年(昭和4年)から1946年(昭和21年)にかけて移転してきたものである。〕〔〔『改訂・せたがやの散歩道 一歩二歩散歩』、82-83頁。〕。烏山寺町は、第2期に形成されたものである〔。烏山に移転してきた寺院は、築地や浅草から移転してきた寺院が多かった〔。その他に、下谷・深川・麻布・三田・品川・白金など東京市内各所からも寺院が移転している〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「烏山寺町」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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