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烏山藩(からすやまはん)は、下野国那須郡烏山(現在の栃木県那須烏山市城山)に存在した藩。藩庁は烏山城に置かれた。また、大久保家が藩主となった享保年間以降は相模国の鎌倉郡・高座郡・大住郡・愛甲郡の一部も支配し、愛甲郡厚木町(現神奈川県厚木市)に厚木役所(厚木陣屋)を置き、相模国内支配の拠点とした。 == 藩史 == 戦国時代、烏山は那須氏の一門である那須資晴が治めていた。天正18年(1590年)、資晴は豊臣秀吉の小田原征伐に参陣せず、改易となる。子の資景は那須藩を立藩する。天正19年(1591年)、成田氏長が2万石で烏山に入部する。これが烏山藩の立藩である。氏長は後北条氏の家臣で、小田原征伐では小田原城に籠もっていたが、北条氏滅亡後に秀吉から召し出された。氏長の死後、家督は弟の成田長忠が継いだ。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで長忠は東軍に与し、在国して上杉景勝に備えた戦功を評されて、1万7000石を加増された。大坂の陣でも徳川方として参戦し、武功を挙げたが、元和2年(1616年)12月18日、長忠が死去した後に家督争いが起こり、2万7000石の減封処分となる。家督は長忠の次男・成田氏宗が継いだ。氏宗は元和8年(1622年)11月8日に死去し、再び家督をめぐっての騒動が起こり、改易となる。 元和9年(1623年)3月15日、常陸国小張藩から松下重綱が2万800石で入る。寛永4年(1627年)3月14日に陸奥国二本松藩に移封となる。代わって下野国真岡藩から堀親良が2万5000石で入る。親良は寛永14年(1637年)5月13日に死去し、跡を堀親昌が継いだ。親昌は領内で検地を行い、烏山城の改修を行うなどして藩政の基盤を固めた。 寛文12年(1672年)閏6月1日、親昌は信濃国飯田藩に移封となり、代わって京都所司代や老中職を歴任した板倉重矩が入った。重矩は家臣の地方知行制度を廃止して村請制を制定した。寛文13年(1673年)5月29日に重矩が死去した後、その跡を継いだ板倉重種も烏山城の拡張工事、城下町の区画整備、宗門改めなどを行い、藩政の基礎を固めた。延宝9年(1681年)2月25日、武蔵国岩槻藩に移封となる。 代わって下野国那須藩から那須資弥が2万石で入る。那須氏の旧領復帰であった。貞享4年(1687年)6月25日、資弥が死去し、その跡を継いだ養子の那須資徳のときにまたも家督争いが起こり、同年10月14日に那須氏は改易となった。代わって河内国・摂津国・山城国などに所領を領していた永井直敬が3万石で入った。元禄15年(1702年)9月1日、赤穂藩の浅野氏が取り潰された後を受けて、直敬は赤穂藩に移封となる。 代わって若年寄であり、上総国大多喜藩主であった稲垣重富が2万5000石で入る。宝永7年(1710年)4月17日、重富は死去し、跡を稲垣昭賢が継いだ。享保10年(1725年)10月18日、昭賢は志摩国鳥羽藩へ移封となる。 若年寄で近江国内に1万5000石を領していた大久保常春が2万石で入り、ようやく藩主家として定着した。後に常春は老中に栄進したため、役料として1万石を加増された。常春は領民と家臣に対して法律を制定することで藩政を固めた。しかし第3代藩主大久保忠卿の治世末期から農村荒廃化や財政難が深刻化し、第4代藩主大久保忠喜は倹約令、荒地改めなどによる藩政改革を行ったが、効果はなかった。第5代藩主大久保忠成も農村支配の強化、結婚奨励政策などによる「厳法」と言われる藩政改革に着手したが、やはり効果はなかった。第6代藩主大久保忠保は菅谷八郎右衛門を家老に登用し、さらに二宮尊徳から報徳仕法などを学ぶことで藩政改革を目指した。天保10年(1839年)12月17日 復興事業を先導していた菅谷八郎右衛門、辞職願提出、復興事業は中断する。菅谷は同25日に隠居を命ぜられる。翌天保11年(1840年)12月11日、菅谷は復興事業反対派に圧される形で失脚し、領外追放となる。その後、帰藩を許され復興事業再開のため、200石で家老職に復帰する。弘化2年(1845年)3月、菅谷は隠居、復興事業には3年間復帰していたが、結局挫折した(嘉永5年(1852年)1月9日死去)。 幕末期は藩の領内が荒廃して確立していなかったことなどもあり、あまり目立ったことはなかった。明治2年(1869年)に版籍奉還が行われ、明治4年(1871年)7月に廃藩置県で烏山藩は廃藩となる。その後烏山県となり、同年11月に宇都宮県に、また相模国内の管轄区域は神奈川県、足柄県に編入された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「烏山藩」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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