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烏賀陽弘道 : ウィキペディア日本語版
烏賀陽弘道[うがや ひろみち]

烏賀陽 弘道(うがや ひろみち、1963年1月8日 - )は、日本著述家退社後、これから何がやりたいのか? ugaya.com 本人は「もの書き」と称している。〕、ジャーナリスト音楽評論家。元朝日新聞記者。軍事学修士コロンビア大学、1994年)。
日本ポピュラー音楽学会会員。日本外国特派員協会名誉会員。朝日新聞社友会終身会員。
== 経歴 ==
京都府京都市出身。父は著述家・烏賀陽正弘
1969年、京都市立第二衣笠小学校(1972年より京都市立金閣小学校)入学〔 ugaya.com〕。景品のラジオで深夜放送を聞きポピュラー音楽に触れる〔 ugaya.com〕。
1975年、同志社中学校入学。文章を書くことが好きになる。本多勝一立花隆柳田邦男らの著作を愛読〔 ugaya.com〕〔35.8歳の時間・烏賀陽弘道 bizmakoto.jp〕。
1978年、同志社高等学校入学。パンクロックに傾倒〔 ugaya.com〕。ベースギターを弾き始める。
1982年、京都大学経済学部入学。在学中は「世界経済論」を専攻する一方で、活発にバンド活動を行う〔 ugaya.com〕。
1986年、朝日新聞社入社。入社後は、三重県津支局、愛知県岡崎支局、名古屋本社社会部で事件記者を5年経験。記者として初めて書いた記事は交通遺児募金についての警察発表〔僕が初めて書いた記事 ugaya.com〕。この時期に記者として基本的な能力である、記事の元となる素材を検証する能力〔なぜ朝日新聞社を辞めたのか?その1 ugaya.com accuracy checkと表現している。〕〔みなさん、さようなら。ブログ連載から降ります。 www.actiblog.com 〕を身につけた。1986年4月、三重県津支局に配属。記者としての基本を学ぶ〔 ugaya.com〕〔35.8歳の時間・烏賀陽弘道 bizmakoto.jp〕。1988年、愛知県岡崎支局に転勤。東京本社リクルート事件の取材に関わる〔ugaya.com〕〔26歳、リクルート事件取材班のメンバーに
bizmakoto.jp〕。1989年、名古屋本社社会部に転勤〔ugaya.com〕〔会社はいつでも辞められる理論 bizmakoto.jp〕。
1991年から2001年まで、週刊誌『AERA』の編集部で記者を務める。『AERA』では音楽・文化を担当。作家になる前の町田康町田康 ugaya.com〕を表紙にし、新人だった鳥肌実とんでも芸人は笑いのパンク ugaya.com〕を取り上げた〔14年経って予想通り鳥肌実は生き残った gayaclipping.blog.so-net.ne.jp〕。最初に書いた音楽記事はロバート・ジョンソンについてのもの〔ロバート・ジョンソン ugaya.com〕。
チェルシー・ホテルについてのルポ〔NY芸術家の安息の家・チェルシーホテル ugaya.com〕を書いたとき、記者としてやっていく自信を持てたという〔GQ MEN たちの35歳の疑問にこたえる ugayaclipping.blog.so-net.ne.jp〕。大手メディアが扱わなかったセックス産業のルポ〔セックス産業ルポ・東京は世界一のセックス都市 ugaya.com〕、変装して潜入取材したドラッグ売買のルポ〔ドラッグシティTOKYO ugaya.com〕は海外メディアから注目された〔会社はいつでも辞められる理論 bizmakoto.jp〕。1992年から1994年まで休職し、無給のままコロンビア大学国際公共政策大学院(SIPA:the School of International and Public Affairs)に自費留学した。その動機は、核戦略について本格的に学ぶためであった〔「グロテスクな平和」~核兵器は存在自体が「悪」なのか? ugaya.com〕。軍事研究・安全保障論を専攻。留学中は、1日に使える予算は5ドル程度で経済的に苦労した〔 ugaya.com〕〔4年前に別れた女との再会 ugaya.com〕〔Unforgettable King ugaya.com〕〔地獄の台所からの食いものだより ugaya.com〕〔GQ MEN たちの35歳の疑問にこたえる ugayaclipping.blog.so-net.ne.jp〕。1995年は、ジャーナリストとして重要な取材を行った〔 頼れるどころか、もはや「有害」な日本の震災報道 jbpress.ismedia.jp 〕。デイヴィッド・ハルバースタムとの ハルバースタムとの対話は、大きな影響を与えた〔僕が初めて書いた記事 ugaya.com〕〔ハルバースタムが死んだ ugayaclipping.blog.so-net.ne.jp 〕。1996年のアメリカ大統領選挙では、半年間全米各地を取材している〔「史上最低の大統領選」と呼ばれた96年アメリカ大統領選挙を1年追ったルポ ugaya.com〕。1998年から1999年は『AERA』ニューヨーク駐在記者を務める〔35~36歳のとき、念願の海外勤務 bizmakoto.jp〕。1997年、当時まだ無名だった村治佳織を『AERA』誌上で取り上げようとデスクに持ちかけたが、却下されたという。その後、1999年になって村治が他誌で取り上げられるようになると、ようやくデスクは村治を『AERA』でも扱うようになった〔なぜ朝日新聞社を辞めたのか?その2 ugaya.com〕。
2001年3月、パソコン入門誌『ぱそ』編集部へ。当時パソコンについてよく知らなかったため、この異動に驚いたという。まついなつきの連載漫画(のちに『まついなつきのパソコンこんなんできまっせ』として単行本化)を担当し、作品内にも担当編集者として登場していた。2001年5月、編集長の三浦賢一が自殺した。自殺後に緘口令が敷かれたが、社内の人間が一切自殺について会話をしなかったことに驚いたという〔なぜ朝日新聞社を辞めたのか?その2 ugaya.com〕〔 www.anr.org 〕〔『ASAHIパソコン』休刊 - サイバー閑話 www.cyber-literacy.com ASAHIパソコンを三浦賢一とともに創刊した矢野直明のblog 〕〔2006年3月Ⅰ日(水) 『ASAHIパソコン』最終号 - 松永俊男のホームページ www.andrew.ac.jp 〕。
2001年11月、出版企画室へ異動。体調を崩し1年ほど自宅療養〔 ugaya.com〕。
2003年、40歳で「早期定年退職」制度を使って退社。その後はフリーのジャーナリスト、評論家として活動。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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