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無癩県運動[むらいけんうんどう]
無癩県運動(むらいけんうんどう)とは、1930年代(昭和5年以降)の日本で、癩病患者を摘発し、癩病患者施設に強制収容させて、県内から癩を無くそう、という目的で行われた、日本の社会運動である。 == 運動概要 == 無癩県運動は『日本らい史』など権威ある本が〔『日本らい史』山本俊一 東京大学出版会 1993〕〔熊本地方裁判所判決文 2001〕〔ハンセン病問題に関する検証会議 2005〕、その発端を1929年(昭和4年)としている。これは光田健輔の『回春病室』の記述に基づいたものであるが、佐藤労は愛知県の方面委員が愛生園を訪問した1934年(昭和9年)を根拠に1934年に始まったとしている〔ハンセン病市民学会年報 2007 p44-53〕。ほかに山口県議会の議事録によると、1930年(昭和5年)に開始されたという説がある。〔杉山博昭 『山口県におけるハンセン病対策の展開 -無らい県運動期を中心に-』山口県史研究 第14号 2006 p46〕。ほかに、強制収容の嵐という題で1930年(昭和5年)から在宅患者強制収容の暗黒時代が始まるとした本もある。この本によると、内務省が始めたとある〔『差別者のボクに捧げる』 三宅一志 晩聲社 1978〕。 鳥取県では知事を会長とする鳥取県癩予防協会を結成し、県民から寄付を集めて長島愛生園に県出身者用の寮を建設し、患者を送致した。〔『鳥取県の無らい県運動』 鳥取県史ブックレット2 2008 鳥取市〕この運動は全国に拡大し、福岡県・山口県・宮城県・富山県・岡山県・埼玉県・愛知県・三重県などの県が積極的だった。主導者は光田健輔である。 佐藤労は、1931年(昭和6年)の癩予防法の施行後に、光田健輔が、十坪住宅運動と共に発案し、政府が推進し、各県が同調して広まったとしている。運動の高まりにつれ、各種公共団体、学校、宗教団体なども協力した〔『ハンセン病無らい県運動の発端について』 佐藤労 ハンセン病市民学会 年報2007, 44-53,〕。この運動は第二次大戦後にも持続し、熊本県では戦後の方が盛んであった。熊本の無癩県運動については、2011年(平成23年)現在、熊本県により検討が重ねられている。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「無癩県運動」の詳細全文を読む
英語版ウィキペディアに対照対訳語「 No Leprosy Patients in Our Prefecture Movement 」があります。
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