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無効化の危機 : ウィキペディア日本語版
無効化の危機[むこうかのきき]
無効化の危機(むこうかのきき、英:Nullification Crisis)は、アメリカ合衆国アンドリュー・ジャクソン大統領のときに、アメリカ合衆国議会が成立させた連邦法をサウスカロライナ州が無効化しようとした連邦法無効宣言によって引き起こされた党派抗争の危機である。高度に保護的な1828年の関税法(「唾棄すべき関税」とも呼ばれた)がジョン・クィンシー・アダムズ大統領の任期中の1828年に法制化された。これには南部からまたニューイングランドの一部から反対があり、関税反対者の予測したところでは、ジャクソンが大統領に当選すれば関税もかなり下がるだろうということだった〔Remini, Andrew Jackson, v2 pp. 136-137. Niven pg. 135-137. Freehling, Prelude to Civil War pg 143〕。
国全体に1820年代を通じて経済の落ち込みがあり、サウスカロライナ州は特に打撃を受けていた。米英戦争イギリスの競争相手に対してアメリカの製造業を成長させるために展開された国の関税政策について、サウスカロライナ州政界の多くが資産が目減りすると言って非難した〔 Freehling, The Road to Disunion, pg. 255. Craven pg. 60. Ellis pg. 7〕。1828年までにサウスカロライナ州政界は関税問題で団結するようになっていった。ジャクソン政権がサウスカロライナ州の関心事に対して何の行動も採らなかったとき、州内の最も過激な派閥は州自体でこの関税は無効でありサウスカロライナ州内では適用されないと宣言することを提唱し始めた。ワシントンD.C.では、州の無効化について最も効果的な憲法理論の提唱者であるジョン・カルフーン副大統領とジャクソン大統領の間に、この問題に関する公然の対立が起こった〔 Craven pg.65. Niven pg. 135-137. Freehling, Prelude to Civil War pg 143〕。
1832年7月14日、カルフーンがその職を辞した後で、ジャクソンは1832年関税法に署名し、関税率を幾分下げた。この下げ方がサウスカロライナ州にとっては小さすぎるものであり、11月には州会議が1828年と1832年の関税法は違憲であり、1833年2月1日以降サウスカロライナ州内では執行されないと宣言した。予測された連邦政府の強制執行に抵抗するために、州では軍事的な準備も始められた。2月遅くに、大統領がサウスカロライナ州に対して軍事力を使うことを認める強制法と、サウスカロライナ州にとっては満足のいく新しい関税法の両方を連邦議会が成立させた。サウスカロライナ州会議が再招集され、1833年3月11日に無効化条例を撤廃した。
危機は去り、両者は勝利を主張する理由を見付けられた。関税率は引き下げられたが、無効化の州の権限理論は国によって拒絶された。関税政策は民主党と新しく登場したホイッグ党の間で国家的政治課題であり続け、1850年代までに奴隷制や領土拡張の問題と組み合わされて、国の最も重要で党派を分かつ問題となった〔Wilentz pg. 388〕。
== 背景 (1787年-1816年) ==

歴史家のリチャード・E・エリスは次のように書いた。

この変化の程度と、州と連邦政府の間での力の現実的配分問題は、南北戦争まで、さらにそれ以降も政治と理論の議論の対象となった〔McDonald pg. vii. マクドナルドは、「アメリカ独立宣言からレコンストラクションの終わりまでの1世紀にアメリカ合衆国を悩ませた全ての問題の中で最も広い問題は、連邦の性質と、全体政府の権限と幾つかの州の権限の間に引かれた線に関する不一致に関するものだった。時にはこの問題が密かに泡立ち、大衆の意識表面の中には見えなかった。時にはそれが爆発した。何度も全体政府と地方政府の権限の間にあるバランスはあっちに行ったりこっちに行ったりしているように思われ、混乱を新たにされ反対の場所に向かっているだけだったが、闘争は決して収まらなかった」と書いた。〕。1790年代初期、アレクサンダー・ハミルトンの国家主義的財政計画対トーマス・ジェファーソンの民主的で農本的な計画という構図で論争が集中し、2つの対立する全国政党の形成に繋がった。この10年間の後半では外国人・治安諸法の成立に続き、州の権限をうたう立場はケンタッキー州およびバージニア州決議で明確にされた〔Ellis pg. 1-2.〕。トーマス・ジェファーソンが書いたケンタッキー州決議は、無効化と脱退双方の正当化としてしばしば引用される次の文章を含んでいる。

ジェームズ・マディソンが書いたバージニア州決議では、下記のように類似した議論がある。

歴史家達は、どの程度までこれら決議が無効化の原理を実際に提唱しているかについて意見が異なる。歴史家のランス・バニングは「ケンタッキー州の議会(より可能性が強いのはジョン・ブレッキンリッジ自身)は連邦の権利侵害に対する合法の救済策は各州による『無効化』であり、それぞれの境界内で連邦の操作を妨げるよう独自に行動するというジェファーソンの提案を削除した。協業してはいるが個々にこの種の手段を提案するよりも、ケンタッキー州はこの法が「無効で効力がないこと」と宣言し、連邦議会の次の会期で「抗議を求める」ことで、友邦に団結を求めることで満足した」と書いた〔Banning pg. 388〕。重要な文と「無効化」という言葉は、1799年にケンタッキー州で成立した追加決議で使われた〔Brant, p. 297, 629〕。
マディソンの判断はよりはっきりしていた。マディソンは、幾つかの州に非難された後の1800年に出版され1巻本の長さもある「1798年決議の報告書」を作成したバージニア州議会委員会の委員長だった。このことで州が法的強制力を主張してはいないことを断言した。「このような場合の宣言は意見の表明であり、熟考を喚起することで意見を生み出すこと以上の効果を伴わない。一方司法の意見は、即座に実効あるものに移される。」諸州が共同でその宣言に同意するならば、違憲立法を撤廃するよう議会を説得することから、3分の2の州がするように憲法制定会議を要求することまで、幾つかの現行手段が可能である〔Brant, pp. 298.〕。無効化の危機の時に、1799年ケンタッキー州決議を渡されると、マディソンはこの決議自体がジェファーソンの言葉ではないし、ジェファーソンはこれを合憲ではなく革命的権利だと意図したと主張した〔Brant, p.629〕。
マディソンの伝記作者ラルフ・ケッチャムは次のように書いた。

歴史家のショーン・ウィレンツはこれら決議に対する世の中の反対を次のように説明している。

1800年の選挙は国政の転換点になって、それまでの連邦党支配から、ケンタッキー州およびバージニア州決議を書いたトーマス・ジェファーソンとジェームズ・マディソンの指導する民主共和党が支配するようになった。しかし、1800年から1817年までの大統領4期でも、「州の権限での進展はほとんど無く、むしろ弱まった。」ジェファーソンの反対にも拘わらず、連邦党の合衆国最高裁判所首席判事ジョン・マーシャルの指導する連邦司法府の権力が高まった。ジェファーソンはルイジアナ買収で連邦の力を拡げ、ヨーロッパの戦争に巻き込まれないよう国家的通商禁止施策を採ったことでさらに拡げた。マディソンは1809年に国軍を使ってペンシルベニア州における合衆国最高裁判決を強制し、「極端な国家主義者」ジョセフ・ストーリーを最高裁判事に指名し、第2国立銀行を作る法案に署名し、また内陸部の改良のために憲法修正を要求した〔Ellis p.5. マディソンはアメリカ・システムの大半が違憲だと考えたために、憲法の修正を要求した。歴史家のリチャード・ビューエル・ジュニアは、ハートフォード会議からの最悪の事態に備えるために、マディソン政権はニューイングランドが脱退した場合に軍隊を介入させる準備をしたと言っている。カナダ国境にいた軍隊がオールバニまで近付き、必要なときはマサチューセッツ州あるいはコネチカット州に進めるようにしていた。ニューイングランドの軍隊はまた王党派に焦点を当てたものとして仕えるようにその徴兵地域に戻った。Buel pg.220-221〕。
米英戦争に対する反対の声はニューイングランドを中心にしていた。ハートフォード会議に送られた代議員達は1814年に集まり、マディソンの戦争政策にたいするニューイングランドの対応を検討した。この議論では多くの急進派が州の権限と州の主権の側に立って訴えることを認めた。最終的に中庸な議論が制し、結論は脱退や無効化ではなかったが、一連の憲法修正を提案した〔McDonald pg. 69-70〕。彼等の問題の大半はその原因が南部の支配する政府にあるとして、提案された修正事項には「5分の3妥協の撤廃、新しい州の加盟を認めるときに両院の3分の2以上が同意するという規定、通商禁止の期間の制限、および明らかにバージニア州を意識して同じ州から続けて大統領が選ばれることを違法とすること」が含まれていた〔 Wilentz pg.166〕。この提案がマディソン大統領に提出される前に戦争が終わった。
ショーン・ウィレンツは米英戦争が終わった後に次のように述べている。

国家主義の精神は戦後期の著しい成長と経済繁栄に結びつけられた。しかし1819年、この国は初めて不況を経験し、1820年代は政治不安の10年間となって、再びアメリカ的連邦主義の正確な性質について対抗する見解の激しい議論が続いた。1798年には大変有効だった「極端な民主主義と農本主義の言辞」が「多くの市場志向の事業、特に銀行、会社、債権者および不在地主」に対する新たな攻撃となった〔Ellis pg. 6. Wilentz pg. 182.〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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