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焦易堂[しょう いどう]
焦 易堂(しょう いどう)は、中華民国の政治家。中国同盟会以来の古参の革命派の人物で、中国国民党では西山会議派に属するなど、右派と目されている。名は希孟だが、字の易堂で知られる。 == 事跡 ==
=== 民国初期の活動 === 清末には、自治研究所を卒業し、武功県勧学総董兼教育会自治会長となる。このときに中国同盟会に加入した。1911年(宣統3年)に辛亥革命に呼応した蜂起が陝西省でも起きると、焦易堂もこれに参加し、都督府参謀に任ぜられている。 1912年(民国元年)、焦易堂は陝西省議会議員に選出され、同年11月には参議院議員となった。翌年に国会が袁世凱により解散されると、私立中国公学に入学し、1916年(民国5年)に卒業している。同年、国会の復活と共に参議院議員に返り咲いた。 翌1917年(民国6年)、孫文(孫中山)が護法運動を開始すると、焦易堂は広州に赴き、大元帥府参事・護法国会議員となった。1918年(民国7年)、陝西労軍使に任ぜられ、陝西護国軍へ派遣されている。1921年(民国10年)12月、大本営参議に任ぜられ、1923年(民国12年)には華北軍事特派員として曹錕賄選反対の宣伝を行っている。操翌1924年(民国13年)10月には大元帥府軍事委員に就任した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「焦易堂」の詳細全文を読む
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