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『焼肉ドラゴン』(やきにくドラゴン)は鄭義信の作による演劇作品。日本の新国立劇場と韓国の芸術の殿堂によるコラボレーション作品であり、鄭と梁正雄の演出により2008年に両劇場で上演された後、2011年にも日韓両国で再演された。韓国での上演タイトルは『焼肉ドラゴン 龍吉さんちのホルモン屋』。 == 上演までの経過 == 東京の新国立劇場10周年とソウルの芸術の殿堂20周年を記念し、両劇場による合同公演第二弾を催す事が決まり〔第一弾は平田オリザと金明和の作、平田と李炳焄の演出により2002年と2005年に上演された『その河をこえて、五月』。〕、在日3世の鄭義信は戯曲の制作を打診された〔東京新聞、2008年4月10日付朝刊、P.5〕。韓国内で戯曲集が出版され、作品も上演されていた事などから、特に韓国側から強い要望があったという。 鄭はそれまでに映画『血と骨』や『月はどっちに出ている』、演劇『たとえば野に咲く花のように-アンドロマケ-』などの中で在日コリアンを描いており、本作品で初めて作品のメインテーマとして在日を取り上げる事にした〔朝日新聞、2008年4月17日付夕刊、P.5〕。『GO』や『パッチギ!』などの映画が登場して在日コリアンに対する社会の理解度が高まっており、観客に関心を持ってもらう土壌があるという判断もあったという。自身が日韓両国を祖国と確信できない「棄民であり、マイノリティー」だという自覚を持って制作にあたり〔、在日は貧乏か大金持ちの両極端という先入観がある韓国で、「在日が笑って普通に暮らしていた事を観客に伝えたい」と考えていた〔。 大阪万博の開発にともなう変化を題材に決め、「日本の共同体そのものが崩壊を始めた時代」と捉えていた1970年前後を作品の舞台として〔、1年間かけて戯曲が執筆された〔朝日新聞、2008年9月24日付夕刊、P.1〕。この時代を描いて当時ヒットしていた『ALWAYS 三丁目の夕日』のアンチテーゼとする事を意識したという〔。また「在日のコミュニティーは世代を重ねて失われつつあり、遠からず滅びるかもしれない」と考えていた事から、コミュニティーの一つの記録にもなれば、と鄭は語っている〔読売新聞、2008年4月9日付夕刊、P.7〕。 執筆に先立って万博の開発で消えていった集落なども取材し、実際に訪れた大阪国際空港横の伊丹市中村地区がモデルとなり「I空港そばのN地区」を舞台とした。焼肉屋を題材にした点については「寄せ屋(くず鉄屋)、ヘップ(サンダル工場)、焼肉屋は在日コリアンの三大職業のようなもので、小さな焼肉屋を通じて彼らの一端を描ければ、と考えた」と鄭は語っている。姫路城の外堀の石垣にあった鄭の実家が強制撤去された体験なども作中エピソードのベースになっている〔。 キャスティングについては、企画が始まった直後ににオファーを出す事を決め、鄭自身が韓国に渡って出演を依頼している。また、高と同じ劇団に所属していた朱仁英にも同時に依頼をした。出演した韓国人俳優は5人中4人が有名な演劇賞を受賞しており、高い演技力のあるメンバーを集めたという。通訳を介して指示を出すため通常の2倍の時間がかかり、1ヶ月半の稽古期間中はキャスト・スタッフにストレスがたまった。しかし日本人への指示も韓国人に向けて全て翻訳することにより、結果として演出への理解の共有などを深めることができたという。 また、本作の取材過程において、九州の廃鉱になった炭坑から流れて来た労働者が数多く大阪国際空港の滑走路建設に従事していたのを発見したことが、1960年代の九州の炭坑町を舞台にした鄭の次作『パーマ屋スミレ』(2012年)の執筆に繋がっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「焼肉ドラゴン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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