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煬帝[ようだい]
煬帝(ようだい〔後世への訓戒として、其の余りの暴君振りが万人に直ぐに判る様に特殊読みにされた〕、ようてい〔『アジア歴史事典 vol.9 ム-ワ・補遺・付表』p125-126 平凡社、「ようだい」は日本古来の読み癖と謂われる〕)は、隋朝の第2代皇帝(在位:604年8月21日 - 618年4月11日)。煬帝は唐王朝による追謚である。中国史を代表する暴君といわれる〔布目潮渢『隋の煬帝と唐の太宗』p12など〕。 == 生涯 ==
=== 即位まで === 後に煬帝となる楊広は、文帝楊堅の次子として生まれる。文帝により隋が建国されると晋王となり北方の守りに就き、南朝の陳の討伐が行われた際には、討伐軍の総帥として活躍した。この時、初めて華やかな南朝の文化に触れ、当地の仏教界の高僧達と出会ったことが後の煬帝の政治に大きな影響を与えたようである。591年には、天台智顗より菩薩戒と「總持」の法名(居士号)を授かり、智顗に対しては「智者」の号を下賜している。 楊広の生母の独孤伽羅は一夫一妻意識が強い鮮卑出身であったため、「自分以外の女とは関係しない」と文帝に誓わせている。また文帝自身は質素倹約を是としていた。ところが、楊広の兄で皇太子の楊勇は派手好みで愛妾を求め、正妃を疎かにしたため、特に皇后に嫌われた。この状況を楊広が利用して自らの質素を宣伝すると共に、腹心の楊素と張衡らによる文帝への讒言を行って楊勇を廃させ、皇太子の地位をいとめた。 604年に文帝の崩御に伴い即位したが、崩御直前の文帝が楊広を廃嫡しようとして逆に暗殺された、とする話が根強く流布した(『隋書』「后妃伝〔によれば、煬帝は父の愛妾(妃)である宣華夫人に迫ったが、夫人は病室に逃げ戻り文帝にそのことを告げた。文帝は怒り、楊勇を呼ぶように命じたがかなわず(このときの罵りは隋書では「畜生」とある)、その直後に張衡が病室に入ってきて女性全員を下がらせたなかで、文帝は崩御したといわれる。なお張衡は8年後に誅殺される。〕」でも言及している)。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「煬帝」の詳細全文を読む
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