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熊澤一衛[くまざわ いちえ] 熊澤 一衛(くまざわ いちえ) 1877年(明治10年)11月1日-1940年(昭和15年)2月14日は、三重県四日市市出身の大正時代~昭和時代の戦前期の実業家。歌人。伊勢電鉄社長。『校本萬葉集』刊行を支援した伊勢人である。〔四日市の礎111人のドラマとその横顔(四日市市制111周年記念出版)66頁の熊澤一衛のタイトルより〕 ==経歴== 1877年(明治10年)11月1日に現在の三重県四日市市河原田地区に生まれる。父が熊澤市兵衛、母が熊澤かと子の長男として生まれている。熊澤家は農家で河原田の旧家で地主であり、代々藤堂家の津藩の御金御用達の役を務めていた。熊澤市兵衛は幕末に庄屋などを務めており、戊辰戦争で『撒隊士』という身分で東征に従っている。明治になって四日市に帰郷したが、明治時代に若くして三重県議会議員になり、河原田村の村長などの名誉職となった。〔四日市の礎111人のドラマとその横顔(四日市市制111周年記念出版)66頁下段16行目~20行目〕 熊澤市兵衛は、農村出身の農民の家柄だが勉学の必要性に気づき学問を重視していた。1909年(明治42年)には河原田尋常高等小学校の建築費を河原田村の村費以外の私費を寄付して小学校を建設した。1920年(大正9年)の皇太子の渡欧記念に自費の15000円で校舎一棟の増築費用を三重郡河原田村に寄付している。 大正時代の皇太子であった裕仁親王の成婚時には、河原田尋常高等小学校の講堂を新築する費用の寄付と、入学志願者が少なくて不振だった三重郡立農学校(その後の三重県立河原田農学校→三重県立四日市農芸高等学校)に対しても、長男の熊澤一衛と協力して三万円と広い敷地を寄付した。『熊沢奨学資金』を新設して、貧困家庭の子供たちの学業の補助をした。 熊澤一衛は旧制津中学校(現在の三重県立津高等学校)を病気のために中退した。病気から回復して日露戦争に看護長として出征して、日本へ帰国後に、1906年(明治39年)に四日市製紙株式会社に就職して四日市製紙芝川工場に勤務した。〔四日市の礎111人のドラマとその横顔(四日市市制111周年記念出版)67頁上段1行目~4行目〕
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「熊澤一衛」の詳細全文を読む
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