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熊谷 信直(くまがい のぶなお)は、戦国時代の武将。安芸武田氏家臣、後に毛利氏家臣。 == 生涯 == === 安芸武田家臣から毛利家臣へ === 平安時代末期に平氏との戦いで活躍した熊谷直実の直系の子孫である。安芸国の国人領主であり、安芸の守護を務めていた安芸武田氏家臣となっていた。 父の元直は武田元繁に従い、永正14年(1517年)に毛利元就率いる吉川・毛利連合軍と戦い、有田中井手の戦いで討死している。この一件もあり、この頃は毛利氏と敵対関係であった。大永4年(1524年)に周防・長門の大名・大内義興が安芸に侵攻し、安芸武田氏の居城・佐東銀山城を包囲した。大内軍の一部が三入庄まで進出したため、八木城主香川吉景らの支援を得て、大内軍を打ち破った。同年7月には、父の仇であった毛利元就の指揮下に入り、香川光景・三須房清らと大内包囲軍に奇襲をかけ、散々に打ち破った。仇であった元就の戦いぶりを間近に見た信直は、元就に対する認識を変え、毛利氏との和解へと繋がった。 大永7年(1527年)に同じ安芸武田家臣の船山城主・山中成祐が信直を暗殺しようとして失敗。3年後にこの仇を討ち、弟の直続、家臣の岸添直清、末田直道らと謀って山中成祐兄弟を討ち取った。 天文2年(1533年)に所領の問題と武田光和夫人であった妹への待遇への不満、大内氏・毛利氏・熊谷氏の密約が漏れたこと、信直が武田氏の所領を横領したことなどで武田氏と対立。ついには自身の居城である三入高松城が攻撃を受けた。兵力は1000余で、それを二手に分け、三入高松城を攻撃するのは総大将武田光和以下、品川信定他200、もう一軍の総大将は武田一門の伴繁清、それに従うのは香川光景、己斐直之、熊谷一族の山田重任、温科家行、飯田義武、板垣繁任などのそうそうたる顔ぶれであった。それに対して熊谷勢は信直を総大将とし、弟の直続、末田直忠・直久兄弟、岸添清直、水落直政らがこれに従った。 三入庄に侵攻した伴繁清率いる武田軍は三入横川表に進出し、防備を固めていた熊谷信直配下300と激突した。この横川表の戦いにおいて少数の熊谷勢は奮戦して、総大将の伴繁清を負傷させた。また三入高松城へ侵攻した本隊も多くの死傷者を出し、撤退を余儀なくされた。これを横川表の戦いと言う。 この合戦を期に毛利氏との連携を強め、その指示へ従うようになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「熊谷信直」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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