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熊谷空襲(くまがやくうしゅう)は、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)8月15日0時23分から1時39分にかけてアメリカ軍により行われた埼玉県熊谷市に対する空襲である〔埼玉県 1989、1111頁〕。太平洋戦争最後の空襲かつ埼玉県内における最大規模の空襲であり、熊谷市は県内では唯一の戦災都市に指定された。「熊谷爆撃」とする資料もある〔。 == 背景 == === アメリカ軍の作戦計画 === 8月13日、アメリカ軍第20航空軍司令部は、第58、第73、第313、第314、第315爆撃航空団に対し山口県光市にある光海軍工廠、同岩国市にある麻里布操車場、大阪府にある大阪砲兵工廠、秋田県秋田市にある日本石油製油所、群馬県伊勢崎市と埼玉県熊谷市の2都市に、動員可能な最大限の航空兵力による攻撃命令を下した〔米軍報告書 1945、553-554頁〕。本作戦と並行して連合国と日本との間で終戦交渉が進められていたが、第20航空軍司令官は「交渉は日本側によって遅延させられている」と見做し、期限間近に迫るまでに最大限の航空兵力を発進させる準備を進め、諸作戦を8月14日から8月15日にかけて実施するように命じた〔米軍報告書 1945、555頁〕。 4施設と2都市が第1攻撃目標として選定された理由については、4施設に関しては重要な正照準攻撃目標のうちこれまで作戦が成功していなかった点〔、2都市に関しては攻撃目標として設定された180の小都市のうちこれまで作戦が成功していなかった点が挙げられ〔、光海軍工廠と麻里布操車場と大阪陸軍工廠に対しては昼間の攻撃計画が〔、日本石油製油所と伊勢崎市と熊谷市に対しては夜間の攻撃計画が立案された〔。作戦当日の気象状況が芳しくない場合、昼間作戦は翌日に延期されるが、夜間作戦については気象状況に関わらず決行される予定となっていた〔。 このうち、熊谷市は中島飛行機の部品製造の重要拠点の一つ、または同社製品の重要な分配基地の一つとして見做されていた〔〔。戦後、米国戦略爆撃調査団によりまとめられた調査報告書には次のように記されている。 識別可能な工場として秩父鉄道石原駅のすぐ南側に位置する市内月見町の熊谷航空工業、市街地の東端に位置する市内末広の理研工業熊谷工場、国有鉄道熊谷駅と貨物ターミナルのちょうど南東に位置するhinode works(原文ママ)を挙げている〔。その中で特に熊谷航空工業については中島飛行機の子会社として部品製造やエンジン製造に関わり、中島飛行機太田製作所や小泉製作所や大宮製作所などの主要工場に付属する施設であると特定し、攻撃目標90.13-1650番に指定した〔。 工場爆撃を目的とする場合は高高度からの精密爆撃が行われるのが常で〔栗田 1988、74頁〕、その際にはM64 500ポンド爆弾などが使用されたが〔、熊谷市に対する攻撃に際してはM47、M69焼夷弾が主に用いられるなど、あらかじめ住宅地域を対象とした作戦となった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「熊谷空襲」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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