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熊野別当[くまのべっとう] 熊野別当(くまのべっとう)は、9世紀から13世紀末頃にかけて、現地において熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の統括にあたった役職。 == 概要 == 熊野信仰の中心として一体のものと観念される熊野三山であるが、各々成立事情を異にし、当初は別個に発展してきたと考えられている〔宮家1 〕。長寛元年(1163年)に書かれた『長寛勘文』所収の「熊野権現垂迹縁起」が伝えるところによれば、10世紀前半頃から、熊野本宮でそれまではっきりした神格があげられていなかった主祭神を家津御子神(けつみこかみ、本地仏は阿弥陀如来)と呼ぶようになった。また、同時期の新宮では、神倉社を経て阿須賀社に結神(熊野牟須美大神)・早玉神(熊野速玉大神)と家津御子神(熊野坐神)を祀ったとの記述が同じく「熊野権現垂迹縁起」に見られ、この時期に熊野三所権現が成立したことが分かる。そして、12世紀に入ると、藤原宗忠の参詣記(『中右記』)の天仁2年(1109年)条にあるように、三山が互いの主祭神を祀りあうようになっており、宗教思想上の一体化がなされ、熊野三所権現が成立していたことが判明する〔宮家2 〕。 三山を統括する役職としての熊野別当の名称は、「熊野別当代々記」によると、前述の宗教思想上の一体化にやや先行し、9世紀に初見される〔宮家18 〕。この時期の熊野山は、依然として地方霊山の一つでしかなかったが、白河院の寛治4年(1090年)の熊野御幸後、事情は一変する。熊野御幸から帰還した後、白河院は、先達を務めた園城寺の僧侶・増誉を熊野三山検校に補任すると同時に、熊野別当を務めていた社僧の長快を法橋に叙任した〔宮家5-6 〕。これにより、熊野三山の社僧達は中央の僧綱制に連なるようになった〔〔小山24-25 〕。このとき設けられた熊野三山検校の職位は確かに熊野三山を統べるものとされたが、検校は熊野には居らず、統轄実務を担ったわけではなかった。宗務は無論のこと、所領経営、治安維持、さらに神官・僧侶・山伏の管理にあたったのは熊野別当とそれを補佐する諸職であり〔宮家16 〕、当初その財政基盤となったのは、白河院から寄進された紀伊国内2ケ郡の田畠百余町であった〔宮家15 〕。 熊野別当を世襲した熊野別当家は、後に新宮に本拠を置く新宮別当家と本宮と田辺を拠点とする田辺別当家に分裂しつつ、別当職を務めた。承久3年(1221年)に起こった承久の乱において、別当家は鎌倉幕府方と上皇方に分裂しその勢力を衰退させたが、それ以後も熊野別当による熊野三山統轄体制は続き〔阪本36-37、428-437 〕、南北朝時代中頃(14世紀中頃)に熊野別当の呼称が消えると共に終焉を迎えた〔阪本437 〕。
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