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小野芳彦[おの よしひこ] 小野 芳彦(おの よしひこ、1860年〈万延元年〉2月7日 - 1932年〈昭和7年〉3月2日)は和歌山県の教育者・郷土史家。 旧制和歌山県立新宮中学校(現・和歌山県立新宮高等学校)で長きにわたって教壇に立ち、当地での尊敬の念を集めた。郷土史家としては、熊野新宮の本願庵主梅本家に秘伝であった編年体の記録を発掘し『熊野年代記』としてまとめたほか、没後に刊行された遺稿集『小野翁遺稿熊野史』(以下、『熊野史』)は、熊野の歴史と信仰の近代的研究の方向性を示したものとして評価されている。 == 生涯 == 小野は、万延元年(1860年)2月7日、和歌山県牟婁郡新宮町に生まれた。1875年(明治8年)5月、16歳で新宮小学校の教授手伝として勤務を始め、同年9月より当時の新宮にあった小学学科伝習所〔新宮市(当時は新宮町)では、1873年(明治6年)に初めて小学校が設立され、1975年(明治8年)には新宮市下本町にある丹鶴小学校と同市熊野地の蓬莱小学校の2校に再編された。しかしながら教員不足が著しく、その解決のために設けられた教員養成所がこの小学学科伝習所で、丹鶴小学校内に設置された2003: 20 。〕に入所し、小学科教授法を学んだ。1876年(明治9年)3月の第1回卒業生の中25名のなかに小野もいたと見られ、同年4月より新宮市内の小学校に勤務している〔山崎21 〕。その後、小野は那智勝浦町内の小学校勤務を経て、1888年(明治21年)に退職して東京専門学校(現・早稲田大学)第2法律学科に学んだ。 東京専門学校卒業後、1891年(明治24年)再び新宮高等小学校の訓導の職を得る。市内の小学校の校長を歴任し、新宮高等女学校長との兼務を経て、1900年(明治33年)4月、和歌山県立第二中学校(現・和歌山県立田辺高等学校)の新宮分校(後に新宮中学校、現・和歌山県立新宮高等学校)に着任する。1922年(大正11年)に小野は新宮中学校を退職するが、嘱託の地位で1929年(昭和4年)4月まで教壇に留まった。1932年(昭和7年)3月2日、新宮の自宅で死去。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小野芳彦」の詳細全文を読む
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