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長寛勘文[ちょうかんかんもん] 長寛勘文(ちょうかんかんもん、ちょうかんのかんもん)は、平安時代の長寛年間(1163年 - 1164年)に編纂された勘文。勘文中に「熊野権現垂迹縁起」(くまのごんげんすいじゃくえんぎ)が引用されていることでも知られる。熊野社領である甲斐国八代荘で発生した八代荘停廃事件を機にまとめられたもので、平安後期における国衙と荘園の対立を物語ると同時に、熊野と伊勢との祭神が異なることが公式に確認された文書である。 == 成立事情 == 長寛勘文成立の契機となったのは甲斐国八代荘(山梨県東八代郡笛吹市八代町)における、熊野神人と甲斐守藤原忠重との紛争である。八代荘は、久安年間(1145年 - 1151年)に甲斐守藤原顕時が朝廷の承認を得て熊野本宮大社に寄進した荘園である。八代荘は甲斐国八代郡にあり、寄進を受けた時の熊野別当湛快は牓示を立てて社領であることを示した。院政期には院や院近臣の間で熊野信仰が盛んであったことから、数年後に鳥羽院は院庁下文を発して国司の妨害や公租を禁じたことにより、熊野社領荘園として公認された〔秋山〕。さらにこの数年後には、近隣の長江荘および安多荘が社領に加納田として加えられ、これらの荘園も同じく鳥羽院の院庁下文により公租免除とされた〔宮家98-99 〕〔八代荘と事件の経緯については、西岡虎之助「甲斐国八代荘をめぐる熊野神人と甲斐守藤原忠重との争」(西岡、1956、『荘園史の研究 下巻1』、岩波書店、所収)、川尻秋生「八代荘と『長寛勘文』」(山梨県編、2004、『山梨県史通史編1 - 原始・古代』、山梨県、所収)に詳しい。〕。応保2年(1162年)、甲斐守に任じられた藤原忠重は、国内に新設された荘園や加納田を停廃せよとの宣旨を受け、甲斐国に下向させる目代の中原清弘にその旨を命じた。清弘は、在庁官人の三枝守政らとともに八代荘に軍兵を率いて侵入し、荘園の神人の抵抗を斥けて、牓示を撤去し、年貢を強奪したばかりか、在家追捕、神人の監禁・傷害といった濫行を起こした〔〔平凡社812 〕。 これに対し、熊野山はただちに朝廷に提訴し、翌長寛元年(1163年)、朝廷は明法博士の中原業倫に勘申させた。業倫は、八代荘設立の経緯と「熊野権現垂迹縁起」の記述とを根拠として、忠重らの狼藉を、院庁下文を無視し、伊勢と同体である熊野権現を侵犯したことから律の盗大祀御神物に相当するとして、絞刑とするべきだと勘申した〔国史大辞典編集委員会568 〕。業倫の勘申により、伊勢と熊野が同体であるか否かが問題となり、断罪以上に重要な問題として関心を集めた。こうして有識者の意見が募られ、藤原範兼、中原師光(以上、同年4月15日付)、藤原永範(同年4月16日付)、藤原長光(同年4月21日)、藤原伊通(長寛2年〈1164年〉4月2日付)、清原頼業(同年4月24日付)といった人々が意見を述べた。これらの意見により、廟議は忠重を伊予国に配流し、清弘を投獄した〔。これら一連の過程で著された文書を集成したものが長寛勘文である。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「長寛勘文」の詳細全文を読む
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