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熙成親王 : ウィキペディア日本語版
後亀山天皇[ごかめやまてんのう]

後亀山天皇(ごかめやまてんのう)は、南北朝時代の第99代天皇にして、南朝最後の第4代天皇(在位:弘和3年/永徳3年(1383年)冬 - 元中9年/明徳3年閏10月5日1392年11月19日))。熙成(ひろなり〔応永15年(1408年)書写の「人王百代具名記」(『常福寺文書』日本書紀私鈔)による。ただし、谷森善臣『帝皇略譜』(1851年)や飯田忠彦編『系図纂要』、高橋光正編『歴朝聖徳録』(同文館、1899年)が「のりなり」、比企修 『皇陵新志』(皇國青年教育協会、1943年)が「よしなり」とするように、独自の訓を付している文献も見られる。〕)。
北朝を擁護する将軍足利義満が提示した講和条件を受諾して、三種の神器を北朝・後小松天皇に伝えて譲位し、南北朝合一を実現した。
明治44年(1911年)に南朝が正統とされたため、歴代天皇として公認されるようになった。
== 系譜 ==
後村上天皇の第二皇子。母については、阿野実為の女とする系図〔宮内庁書陵部蔵の吹上本『帝王系図』の巻末付紙による。このことを最初に指摘した村田正志は、「或はさきの実為女が師基猶子となられたものか。さすれば後亀山天皇の御母は嘉喜門院となるわけである」と憶測する(「後亀山天皇の御事蹟」 『村田正志著作集 第1巻 増補南北朝史論』思文閣出版、1983年。初出は1946年)。〕があるが、これは世代的に整合せず、あるいは長慶天皇と同母で、二条師基猶子嘉喜門院かと思われるものの確証はない。
后妃は一切不詳〔 『大日本史』巻85(列伝12后妃)には、『嘉喜門院集』を根拠に阿佐殿(あさどの)と呼ばれる人物を後亀山天皇の中宮として挙げているが、その実は長慶天皇の中宮に関する伝記である。「阿佐殿」の呼称は、同集の詞書に見える「女御殿」の草体を「安佐殿」と誤認したことによるものらしい(谷森善臣 『嘉喜門院御歌巻証註』)。〕。一次史料に確認できる皇子女は、次の1皇子のみである。
*生母不詳
 *皇子:小倉宮恒敦(?-1422) - 親王宣下の有無は不詳
近世の南朝系図は以下の后妃・皇子女を挙げているが、長慶天皇との混同もあるため、そのままには信頼できない。
*中宮:源(北畠)信子〔『系図纂要 第1冊下』【復刻新装版】(名著出版、1996年、ISBN 4626015425)の「良泰親王」に「母中宮源信子 右大臣顕信公女」と記載されている。また、日置昌一『日本系譜綜覧』【復刻版】(講談社、1990年、ISBN 9784061583221)の「皇后中宮一覧」、後亀山天皇の欄にも「源信子(父未詳)」とある。〕 - 北畠顕信
 *第三皇子:良泰親王小倉宮、1370-1443)
 *皇子:行悟法親王(1377-1406) - 実際は長慶天皇皇子
 *第一皇女:泰子内親王 - 二条冬実
*女御:藤原(二条)教子 - 二条教基
 *第一皇子:世泰親王(1360-1377) - 実際は長慶天皇皇子
*典侍:藤原(日野)邦子(権典侍局) - 日野邦光
 *第二皇子:師泰親王(長徳寺宮、1362-1423)
 *皇子:真阿(1374-1440) - 十念寺開基
*生母不詳
 *皇子:琮(?-1448) - 十念寺2世


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「後亀山天皇」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Emperor Go-Kameyama 」があります。



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