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藤原 季範(ふじわら の すえのり、寛治4年(1090年) - 久寿2年12月2日(1155年12月27日))は、平安時代末期の公家・神官。藤原南家、藤原季兼の子。位階は従四位下。額田冠者を名乗る。 == 経歴 == 父が目代として赴任していた尾張国に生まれる。出生時父季兼は、当時としては高齢の47歳であり、季範が12歳のとき死去した〔「浄瑠璃姫と岡崎 〜桜と姫に守られて〜」 岡崎商工会議所〕。 季範の母の実家である尾張氏は、代々熱田神宮の大宮司職を務めていたが、員職の代に至り、霊夢の託宣と称して永久2年(1114年)外孫の季範に同職を譲る〔『張州雑志』巻三十四所収「大宮司系譜」〕。これ以降、熱田大宮司は季範の子孫の藤原氏による世襲となり、尾張氏はその副官である権宮司に退いている。 保延3年(1137年)8月、夢想により五男・範雅に大宮司職を譲る〔『熱田大宮司千秋家譜』〕が、季範が死去した久寿2年(1155年)に季範の長男・範忠が大宮司職に就任する〔。 季範自身は主に都で生活することが多く〔角田文衛「頼朝の母」『王朝の明暗』所収〕、従四位下の位階も受けている。従姉妹に鳥羽院の乳母藤原悦子(藤原顕隆室)がおり、またその甥が信西(諸説あり)であるなど、中央政界との繋がりも多かった。 また子女を経由した人脈も幅広く、待賢門院や上西門院に女房として仕えた娘がいた他、娘の由良御前は源義朝と結婚し、頼朝・希義・坊門姫(一条能保室)らを生んだことで有名である。さらに、養女となった孫娘(実父は範忠)は足利義康と結婚して義兼を生み、後世の足利将軍家にも季範の血統を伝えている〔男系子孫についても、範忠が八条院女房を妻に迎え、範信の子に八条院と上西門院に仕えた者がいた他、多くの男子が後白河上皇の北面になるなど、中央に人脈を持つ者が多かった。〕。また由良御前が産んだ孫の坊門姫の血筋は鎌倉幕府将軍の藤原頼経・頼嗣の他、後嵯峨・亀山両天皇にも伝わっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤原季範」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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